山本琢磨
パウロこと、山本琢磨は土佐で生まれた。
龍馬とは遠い親戚であり武市半平太の妻富子の叔母は琢磨の母親だった。
そのため龍馬達との関係も深く、武術に優れたため江戸に出て鏡心明智流桃井道場で腕を磨き師範代まで勤めた。
だが、ある晩、金時計を拾い仲間と共に売り払いその金で飲み食いをしてしまったことから琢磨の人生は一変する。
彼の行いは窃盗であり、すぐに発覚し捜査の手が及ぶ。
訴追を逃れるため、龍馬と半平太の助けで琢磨は江戸を脱出。
その後は日本各地を放浪する。
新潟にたどり着いたとき、偶然知り合った前島密――のちに郵便制度を始め、郵便の父と称される人物の勧めで、多くの外国船がやってくる函館で学ぶべきと言われ、函館へ行く。
函館では剣の腕があったため、道場を開くと町の名士達と親交を持つようになった。
その中に箱館明神宮の宮司沢辺悌之助に気に入られ乞われて婿養子となり、神社の宮司となって以後は沢辺を名乗るようになる。
そして琢磨は箱館の名士として、活躍しつつも維新の同志への援助を続けた。
特に新島襄――会津戦争中女だてらに銃を持って戦った八重を妻に持ち、後に同志社大学を創設する人物を匿い、アメリカへの密航を助けた。
そんなある日、ロシア領事館付属の聖堂の神父ニコライから領事館員の子弟に日本の武術を学ばせたいという依頼が来た。
ニコライが宣教のために日本文学や歴史を研究していたこともあり、攘夷志士だった琢磨は、ニコライを日本侵略の尖兵、日本を調べるスパイと考え、詰問に行った。
突然現れた琢磨にニコライは理路整然と答えると共に正教会の教えを知っているかと問うた。琢磨が知らないと答えると、知ってから断罪すると良い、といい琢磨に正教の教えを説いた。
正教の教えを理解した琢磨は熱心な教徒となり、洗礼を受け、日本最初の信者の一人となり、パウロの名を与えられた。
暫くは洗礼したことを隠して神社の宮司を続けていたが、やがて改宗を公言し神社を去る。
しかし、禁教令が解かれていないため、一家は周囲より迫害を受け生活は困窮。精神的に不安定になった妻が家に放火するほど琢磨の一家は追い詰められる。琢磨は妻子を残して箱館を脱出し東北で宣教しながら南下する。
途中、捕縛されるも、丁度、政府の禁教令が解かれ自由の身になり、以後伝道に力を入れる。
やがて正教を学ぶ人間が日本でも増え日本人聖職者が必要とされると、琢磨がその候補者として選ばれ、箱館に来日した東シベリアのパウェル主教の按手――キリスト教の儀式で聖職者に任命されるとき攘夷聖職者に聖職者としての献納や必要な賜物を志願者へ授与、継承を神に祈る儀式によって司祭に任命された。
琢磨は司祭に任命されると精力的に多くの正教徒と育て儀式を行っていった。
特に、東京復活聖堂、通称ニコライ堂の建設には尽力した。
初めは建設資金を困窮する者達に分けるべきだと主張したが、集まった寄付、ロシアの正教徒達から送られた24万円の寄付が建設費用のためと指定されていたこともあり、それを聞くと納得して建設に励む。
建設中も駿河台の高台に高層建築物を建築することは、皇居に住む天皇陛下を見下す行為として反対され、右翼の妨害もあった。
だが、かつて剣の腕を誇った琢磨の気迫の前に右翼は退散して行き工事は進んだ。
こうして、明治の名建築とされるニコライ堂は七年の歳月をかけ1891年に竣工した。
琢磨はここを拠点に日本に正教を伝道した。
海援隊と龍馬も樺太を巡るロシアとの対立もあり、ロシアに伝手のある琢磨を頼ることが多く、彼の活動に手を貸した。
そして、ロシアで正教を学ぶため、海援隊のサンクトペテロブルクに旅立つ。
卒業後も悪化する日露関係を憂慮し草の根から関係改善を図ろうと開戦後も残り、ガポンを手伝いつつ、活動を続けた。
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