アーニャの憂鬱 サンクトペテロブルクでの生活
「済みません。食料を買いたいのですが」
1905年の年明けサンクトペテロブルクに住むアーニャ・サブロフはいつも使う店の店主に声をかけた。
工場労働者の夫セルゲイと子供三人と暮らす共働きの妻だ。
彼女も夫も農奴の出身だ。農奴解放令によって農奴から抜け出したが生きて行くための術がなかった。
仕方なくサブロフの一家は工業化が進み、そこで働く工員を募集していた都会へ引っ越した。
だが何のスキルもない労働者の生活は厳しく、その日暮らしの日々が続いた。
アーニャも働きに出て、何とか生活費を稼ぐ生活を送っている。
紡績工場からの帰り、何時もの商店で夕食の材料を買って帰るのが日課だった。
「はいよ、奥さん」
いつも通り店主がアーニャに商品を渡した。
しかし、受け取った袋はいつもより軽かった。
中身を確かめると、やはり量が少ない。
「少ないじゃないの。いつもと同じ量をおくれよ」
夫と子供のためにも食料は必要だった。
最近は残業が増えているので、食べないと身体が終業時間まで保たない。
「でもなあ奥さん。最近値上がりしていて、これだけだと、これしか渡せねえんだ」
物価の高騰により、変える量が少なくなったのだ。
数少ない現金で買うべきか否か。
アーニャは選択を迫られた。
「分かったよ」
アーニャは諦める選択をした。
もうすぐ、クリスマス――ロシアはユリウス暦のためこの年は一月九日がクリスマスであり子供達に何かプレゼントをやり、ご馳走を食べさせたかった。
しかし、その願いは叶わなかった。
翌日、同じように買い物に行くと昨日より更に少ない量しか買えなかった。
「どういうことだよ」
「戦争で物資が必要なんだ。それで政府が食糧を買っている。市場の値段が上がっているんだ」
「そんな、これでどうやって食べていくの」
「そっちで何とかしてくれ、こっちも仕入れ値が上がっていて限界なんだ。どうする買うか? 止めるか?」
「……買うよ」
アーニャは有り金全てで出来るだけ買い取った。
明日も値上がりするかもしれないからだ。なら今のうちに買い取った方が良い。
「毎度」
アーニャは溜息を吐いた。
これでクリスマスのご馳走もプレゼントもなしだ。
明日は家の有り金を使って食糧をため込まないとダメだ。
だが、翌日には更に酷い事になった。
「どうしてだよ。どうして売ってくれないんだよ。こっちは有り金を叩いているのに」
家中の現金を掻き集めたのに店主が商品を売ってくれないのだ。
「仕方ないだろう。商品が全くないんだから」
店主は済まなさそうに答えた。
売りたくても商品が全くないのだ。
「何でないんだよ」
「あんたみたいに値上がると思って今のうちに買っておこうという人が多くてね。皆、買われていったんだよ」
店主は殻の棚を見せて言った。
「何で商品がないんだよ」
「軍が戦争の為に必要だと異って皆買い上げてしまう」
敗退が続き多くの物資、武器弾薬だけでなく、兵士を喰わせるための食糧が失われその補填が必要だった。
特に食糧は数十万の軍隊を維持するために、戦闘がなくても毎日必要なため膨大な量を必要としていた。
国内で買い込み戦場へ送り出していた。
そのため、ただでさえ輸出のために小麦を海外に売っているロシア国内から食糧が減ってしまい食糧が極度に不足していた。
「全く碌でもない戦争ね」
溜息を吐きながらアーニャは言う。
「ああ、全くだ」
店主もアーニャの言葉に同意する。
「何でこんな戦争、始まってしまったんだろう」
アーニャの嘆きは全ロシア国民の嘆きであった。
日露戦争の開戦当初こそ国民は熱狂的に支持し祝った。
日本軍の攻撃に怒ったのと、小国など一ひねりで潰せると考えたからだ。
そしてロシアの勝利を、栄光をもたらすと、つらい日々の中に明るい話題を与えてくれると信じていたからだ。
だが、戦争が長引くにつれて、徐々に支持は下がっていった。
ロシア軍の敗退と日本軍の快進撃が続いたからだ。
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