埋伏の毒

「不味いことになった」


 ステッセルは些か消極的で軍人として問題だ。そして、野戦指揮官であり要塞戦の専門家ではない。

 そして、旅順要塞司令官スミルノフより序列が上で事実上、二人の指揮官が旅順にいることになる。

 しかもフォークは警察、憲兵上がりであり軍人としての資質に欠ける。

 事実、南山の戦いで陣地を放棄しようとした。

 そんな人間が加わるなど、コンドラチェンコ少将はダメだった。

 さらに、捕虜収容所の手違いといって、遼陽会戦で捕らえたロシア軍の捕虜が紛れ込んでいた。

 遼陽会戦の敗北が旅順要塞の中に知れ渡る事になって仕舞い、味方の北への後退、要塞が休園される見込みが文字通り遠ざかったことで、将兵の士気が下がってしまった。

 隔離しようとしたが、東シベリア狙撃兵第四師団の将兵も収容所で海外の新聞を購読していたため、遼陽会戦の事実を知っており、旅順に入ると盛んにそのことを話している。

 最早、情報統制など不可能だった。


「こうなったらステッセルとフォークだけでも排除しなければ」


 コンドラチェンコ少将は、二人を南山の敗北の責任を取らせて解任しようとした。

 だが、日本軍が捕虜を通すために一時的に解放した通路から本国からの訓令が届いた。


<ステッセル中将をロシア関東軍司令官に任命。フォーク少将率いる東シベリア狙撃兵第四師団及び旅順要塞を指揮下に置くものとする。また旅順要塞は東シベリア狙撃兵第四師団の再編成に尽力するべし>


「どういうことだ!」


 本国からの訓令にコンドラチェンコ少将は怒りをぶちまけた。

 狭い要塞なのに指揮系統が別な兵力を抱え込むことになって仕舞う。

 しかも無能なフォーク少将を指揮官とする部隊だ。

 おまけに、タダでさえ少ない兵器を分け与えよ、と言うなど正気の沙汰ではなかった。


「このような訓令は無視し、拘束するべきです」


 コンドラチェンコ少将はスミルノフ中将に進言した。


「残念ながら出来ない」

「何故です!」


 理解出来ないとばかりに、困惑するコンドラチェンコ少将にスミルノフは本国からの訓令を渡した。


「本国は我々が降伏するかもしれないと考えている。彼らは我々のお目付役だ」


 訓令を要約してスミルノフは伝えた。

 戦場清掃の為に、一時的に休戦したのを降伏のための準備と考えているようだった。

 しかも、都合の悪いことに日本軍は、休戦を利用して第三軍の一部を遼陽会戦へ転用。

 日本軍勝利の一因となった。

 コンドラチェンコ達が勝手に休戦を行わないように監視するために、ステッセル達を送り込み、旅順を維持しようと考えていた。


「馬鹿な」


「だが、事実だ。本国は我々を裏切り者と思っている」


 コンドラチェンコは悔しかった。

 開戦前より、前任者の怠慢により、工事の遅れていた要塞の建設を急がせ、会戦したら防御を強化し、日本軍の包囲に対して徹底的に抵抗した。

 雨あられと艦砲射撃が降り注ぐ中、各所を駆け回り、兵を鼓舞し半年以上、日本軍の攻撃と包囲に耐え、孤立しても決して降伏しなかった。

 全ては祖国のため、忠誠を誓い、将軍の地位を与えてくれた国家に報いるためだ。

 それなのに裏切り者の疑いを向けられるのは、あんまりだった。


「こらえるのだ。コンドラチェンコ少将」


「……はい」


 スミルノフ中将の言葉にコンドラチェンコ少将はやっとの思いで返事をした。

 だが、祖国の自分に向ける仕打ちに、コンドラチェンコは一瞬、日本軍への降伏も考えた。

 すぐに消し去ったが、何のために戦えば良いのか、コンドラチェンコは分からなくなり始めた。




「本当に悪辣ね」


 捕虜交換が終わった後、参謀長の沙織が鯉之助に言った。

 ステッセルとフォークを解放し、更に東シベリア狙撃兵第四師団の将兵と遼陽会戦で捕らえた一部も旅順要塞に送り込むというのだ。


「おまけに、旅順に不利な情報やロシア本国の訓令も届くように仕掛けるなんて」


 旅順への封鎖は厳重に行っており、情報さえ完全に遮断していた。

 そのため、旅順は外部の情報に餓えている。

 遼陽会戦でのロシア軍の敗北、監視役として無能な人間がコンドラチェンコの上に立つというのは旅順の防衛を困難にする。

 頭では理解しているが、悪辣である事は確かだ。


「それでもやらない方が良い?」

「いえ、存分にやるべきね。旅順が防衛困難になるのなら、陥落が早まるのなら、毒を送り込む事ね」


 中国の計略に埋伏の毒という計略がある。

 密かにスパイを送り、内部崩壊させるのが主だが、鯉之助は無能な敵の章を敵に送ることで成果を上げようとしていた。

 相変わらず悪辣な計略を行う鯉之助に、沙織は呆れつつも頼もしく感じた。

 

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