クロパトキンの事情

「本国からの増援はまだか」


 苛立たしげにクロパトキンは尋ねる。


「はい、シベリア鉄道はまだ完成したばかりで、輸送力が」


 ゲオルギーの手配により突貫工事で最後に残っていたバイカル湖南岸の路線が完成し全面開通したシベリア鉄道だったが、あちこちに不備が残っていた。

 路盤の強度が十分でなく、車両が重いとレールが沈み込んでしまう。

 そのため重量制限がかけられ、ただでさえ重い軍用列車を走らせることは出来ない。

 しかもその列車も待避線や信号所の不備から、当初は一日三本しか走らせることが出来なかった。

 日本軍の猛烈な兵力増強に対応して、列車を片道で一方的に送りつける方法でなんとか一日一二本へ増強。緒戦の敗退によって失った兵力を補充、次いで増強し、ようやく互角の兵力を手に入れ、遼陽の周辺に二二万の大軍を展開させた。

 だが、まだ足りない。

 予想外の速度と方法で攻めてくる日本軍に対してクロパトキンは日本軍を過大評価していた。

 今の兵力では不十分とさえ思っていた。

 強固な陣地に囲まれてきも破られてしまうと考えていた。


「本国の連中の怠慢で兵力が全然増強されない」


 本来なら開戦してすぐに動員が行われるべきだったが、遅れていた。

 動員対象は農民。春の農作業を行わせるため、農作業が終わる四月以降に繰り下げられたのだ。

 しかも動員されるのは予備役、五年以上も現役から離れている。

 五年の技術革新は凄まじく、彼らは新型の銃や大砲、戦術を知らない。

 たった三週間の再訓練で、日本軍と互角に戦えるとは到底思えない。

 この点に関してはゲオルギー殿下が、シベリア部隊に対して早期の動員と貧困層の救済と増強を名目に志願制の部隊を編制し送ってくれたお陰で兵力はある程度、確保できた。

 四月にはシベリアからの部隊を受け取り、七月にはヨーロッパからの増援部隊を受け取ることが出来、クロパトキンは多少の余裕を得ることが出来た。

 だが訓練に関しては、同じで練度に不安がある。

 出来れば、この倍、いや日本軍の倍の兵力が欲しかった。

 クロパトキンの苛立ちはそれだけではなかった。


「後退してきた部隊の再編は?」

「行っていますが装備が足りません」

「くそっ」


 指揮下のシベリア第一軍団は大石橋で、シベリア第二軍団は析木城で危うく包囲されかけ、血路を開いて後退していた。

 その際に野戦砲を含む重装備と物資を大量に置いていったため、装備と物資が不足している。

 陣地にこもらせているが、どれほど防衛線を維持できるか不安だった。


「場合によっては当初の計画通り奉天、ハルピンまで下がる必要があるな」


 クロパトキンは初めから遼陽は勿論、奉天も長春も放棄しハルピンまで後退する計画を立てていた。

 日本は小国であり大軍を大陸に展開する能力がない。

 無理に展開しハルピンへ向けて進撃すれば、国力が疲弊し派遣された陸軍は進むごとに戦力を失っていく。

 そうして弱まったところをシベリア鉄道で運ばれてきたヨーロッパからの援軍と共に圧倒的な兵力で日本軍を包囲殲滅。

 戦争をロシアの勝利に終わらせようというのがクロパトキンの基本計画だった。

 歴史的に見てもナポレオン戦争における、ロシア遠征に対する遅滞戦闘、後の第二次大戦におけるソ連の後退戦術などがあり、ロシアの古来の必勝戦略と矛盾した計画ではなかった。

 だが実行できない理由があった。


「本国は反撃し奪回せよと言っております」

「引きつけて戦うのが我がロシアの流儀だ」

「本国は日本がナポレオンほどの能力は無いと考えております。戦わず後退するのは大国ロシアが小国日本を恐れていると見られ威光を損ねると」

「侮りがたい敵だぞ」


 陸軍大臣時代、日本を視察したクロパトキンは日本軍の閲兵を受け、演習を視察し彼らの装備、練度が高いことを知っている。そのため正しく実力を評価し、侮りがたいとみていた。


「出来る状況ではない」


 クロパトキンも出来る事なら、進軍して日本軍を叩き潰したい。

 だが、当初の計画では太平洋艦隊が黄海の制海権を握り、日本軍の上陸地点は朝鮮半島の南部に限定され、満州への進撃は大幅に遅れ補給も不完全になり、ロシア満州軍だけでも十分に対応できるはずだった。


「海軍がだらしないからな」


 だが、開戦初頭の奇襲攻撃で太平洋艦隊が壊滅し旅順に引きこもり、制海権を奪われた。

 日本は持っている商船団をフル活用し、朝鮮半島どころか、遼東半島、それも黄海の更に北、渤海からも上陸し大陸に陸軍を展開している。

 海から背後への奇襲上陸により、幾度も陸軍は包囲殲滅され、急速に兵力を減じていた。

 ここは海から離れた有利な場所まで退却し、増援を待って反撃するのが一番確実で勝利を見込める作戦だった。


「しかし、本国はそうは見ていません」


 だが、日本という国に行ったことのない宮廷の高官達は、地図を見て日本を極東の小さな島国と侮っており、フランスほど強力ではない。

 ロシアが少し力を見せつけるだけで勝てる、負けることはないと考えていた。


「能なし共め」


 前線を見ずに偏見で決定し、押しつけてくる本国と宮廷に怒りを滲ませた。

 ゲオルギーがツェザレーヴィチを解任されてから、宮廷の干渉は強まるばかりだ。

 アレクセーエフの口出しさえ嫌なのに、本国からも言われるのは邪魔以外のなにものではない。


「ですが、帝国の威光を損ねるのもどうかと」

「ぐぬぬっっ」


 宮廷の日本への評価はロシアの一般的な日本への評価と同じだった。

 もし、日本に戦わずして敗れればロシアの名誉は傷つく。多数の民族を軍事力をバックに纏め上げているロシア帝国で、軍および帝国の威光が傷つけば帝国は侮られ反乱が起きてしまう。

 実際、現状でも不満を持つ人間がいて反乱が起きており、西部軍の三分の一が鎮圧に当たっている程だ。

 ここで後退したら反乱は更に広がってしまうだろう。


「……分かった」


 クロパトキンは渋々、遼陽での戦い、日本軍の攻撃から遼陽を守り抜くことを決意した。


「しかし、状況が不利となれば後退する」


 だが、最後のひと言のように、クロパトキンの意志は不確実なものだった。

 このような状況で日露は遼陽において会戦を行う事になる。

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