第六部 遼陽会戦
満州という土地
満州
中国の北東部にある日本の二.五倍の面積を持つ広大な大地。
二一世紀には中国東北部と呼ぶようにと共産中国が口を酸っぱく言っているが、歴史的に中国との繋がりは最近になってから生まれた。
この地が得意なのは一六〇〇年代、明の末期まで遡り、関東州という意味を理解しなければならない。。
日本の近現代史で出てくる関東軍とは遼東半島、関東州と呼ばれる地域を守る軍隊として生まれた。
では、この関東というのはなにか。
明時代の中国は北虜南倭、北の騎馬民族と、南の日本人を中心とした海賊に悩まされていた。
そこで明は北の守りとして古代の王朝より作り上げられた万里の長城を改修して守りを固めた。
その東の端、渤海に面する守りの要が山海関と呼ばれる関であり、ここから北東の方向は中国から外れた化外の地、非文明の土地とした。
山海関、関の東側、だから関東と名付けた。
日本の関東地方も同じで、鈴鹿の関より東の土地、東日本を意味するのが元々の関東だ。後になって、現在の東京を中心とした地域に限定されて使われることになった。
閑話休題、山海関より北と東は中国王朝の力が及ばない地域だった。
しかし、明朝末期に変化が起こる。
満州は群雄割拠していたがヌルハチ率いる女真族によって統一され清が建国され、山海関以北の明の領土を占領し、さらなる南下を目指していたが、山海関の守りは堅く、攻めあぐねていた。
だがその時、明の内部で李自成の乱が起き、北京を占領し明は滅亡した。
それを見た当時山海関を守っていた呉三桂は山海関を攻めていた清に寝返る。
山海関を手に入れた清は中国の平野を駆け抜け、明の領土を全て占領し、清帝国を作り上げた。
これが、中国最後の王朝である清である。
満州は王朝の故郷であるため聖地とされ、満州人以外が入ることを禁じられ漢民族の入植を禁止していた。
しかし、一九世紀になって状況が変わる。
ヨーロッパ列強が植民地を求めてアジアにやってきて、その矛先が中国に向けられた。
特に陸続きのロシアは露骨だった。
モンゴル系の騎馬民族の居ない北のツンドラ地帯を川伝いに移動してオホーツク海まで進出し、満州にも入ってきた。
危機感を抱いた清は国境条約をロシアと結ぶが、国力が衰退していき、徐々に領土を奪われていき、はじめはアムール川で引かれていた国境線が変更され、沿海州を、ウラジオストック周辺の日本海沿岸を奪われる事態になった。
これに慌てた清はそれまでの方策を転換、満州が中国、清の領土である事を示すため漢民族の満州入植を認めた。
一八六〇年には三五〇万人ほどの人口がいたと推定されるが、一九〇八年には一六〇〇万にも増え、満州事変前では三〇〇〇万人いたとされている。
さらに事態を悪化させたのが義和団の乱だ。
北京で包囲された公使館を助けるために各国は軍隊を派遣。
その中にロシア軍も含まれていた。
だが、彼らは北京への一番乗りを目指していたが、同時に満州の軍事占領を狙っていた。
義和団掃討の名目で満州各地を占領していたが、各国が軍を撤退させる中、唯一撤退しないロシア軍に世界的な批判が起きた。
特に朝鮮半島を勢力下に置きたい日本の危機感は大きく、英国などと共に再三、撤退を申し入れた。
ロシアは渋々、撤退を了承し三回に分けて満州から軍を退くことにした。
だが、実行されたのは第一回撤兵のみ。
その後は、軍を更に展開させ、朝鮮の国境にも現れ日本の勢力圏も脅かすようになる。
危機感を抱いた日本は、ロシアへの開戦を決断。
日露戦争が起きた。
それは満州という土地が、どれだけ日本の生存に関わるか、重要かである事を朝鮮半島と共に示す証拠だった。
日本陸軍が朝鮮半島を越えて、満州平原に攻め込む作戦を戦前から計画し、数十万にも及ぶ野戦軍を展開するのも、満州の軍事的、地政学的な重要性からだ。
資源的にも撫順の炭田、鞍山の鉄鉱石などの鉱物資源、大豆、高粱などの農作物は魅力的だった。
日露が争うのは致し方なかった。
そして今、満州を巡る戦いが起きようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます