第二次総攻撃前

「ようやく攻略できるな」


 海兵師団の塹壕から旅順を目にして鯉之助は呟いた。

 黄海海戦でロシア太平洋艦隊の戦艦は一隻撃沈され、一隻は中立国であるドイツの青島に入って抑留された。

 開戦劈頭で撃沈した一隻と炎之助が撃沈した一隻を加えて四隻の戦艦を失っており残存する戦艦は三隻。

 連合艦隊は撃破されて修理中のものを除き指揮下にある戦艦は四隻。

 さらに海援隊の戦艦二隻が加わり合計六隻。数の上では倍となっている。

 しかも皇海型は通常の戦艦二隻分の働きをする。

 そして第二艦隊も加わっている。

 装甲巡洋艦ながら、戦艦に準ずる戦闘力があり、戦艦の代役を十分に務められる。

 この後に戦いがあれば確実に勝てる。

 しかしロシア太平洋艦隊は旅順に立て籠もったままだ。

 連合艦隊が包囲を解けば、戦艦は出撃してきて日本軍の輸送路を襲撃するかもしれない。

 その恐れが、恐怖があったため日本軍は旅順を攻略することになった。

 常陸丸事件や東海道本線砲撃事件のようなことはもう勘弁だ。

 装甲巡洋艦による被害でこれなのだから、戦艦が出てきたらどのような被害が出て国民の怒りが向かうか分からない。

 確実に太平洋艦隊を消滅させ未来永劫、日本に被害が及ばないようにしなければならない。

 だからこその旅順攻略だった。


「しかし、長官自ら上陸しなくても良いのでは」


 鯉之助に随行して上陸した沙織が言う。


「すでに戦争の焦点は旅順攻略に掛かっている。先の海戦でロシア艦隊は大打撃を受けた。よほどのことが無い限り、しばらくは出てこないだろう」


 よほどの事とは、旅順が陥落する以外にない。壊れた部分を修理する必要があり、海戦で受けた損害は大きく修理期間は長くなるはず。

 だが要塞が落ちるとなれば捕獲されるのを恐れて修理を切り上げて出てくる可能性が出てくる。

 そうなればロシア艦隊を迎撃し全滅させる事も可能だ。

 全滅させる事が出来れば日本の海上輸送路は確保された、と言って良い。

 旅順を陥落させられるか否かが現在の日露戦争の焦点だ。


「旅順が落ちるかどうか見極めたい」


 だからこそ鯉之助は陸上に上がったのだ。


「分かりました。では食事を」


 そう言って沙織が飯ごうを渡した。


「白米か」


 鯉之助は渡された飯ごうを見てつぶやいた。


「麦飯じゃないのか」

「普段はそうしていますが、さすがに明日は総攻撃なので」

「脚気になって動けない方が危険だぞ」


 脚気、ビタミンB欠乏症で心不全と足の痺れが起こり、最悪の場合、死に至る病は日本人は二十世紀初頭まで多かった。

 白米が流行した江戸から始まり、明治になって全国的に白米が広がると広がりを見せていた。

 明治の間に毎年六五〇〇人から一万五〇〇〇人が死亡したとみられている。他にも重い症状で苦しんだ人が多くいるとみられ、国民病と呼ばれた。

 当然、海援隊でも海上で食料が制限される上、白米をありがたがる風潮から脚気がはやり問題となっていた。

 そこで鯉之助が麦飯を支給させるとすぐに収まった。

 この功績も大きく鯉之助が海援隊の中で力を増す要因となる。

 麦飯の支給により脚気が減った事を知った海軍はすぐに取り入れた。

 陸軍は脚気を伝染病か、中毒とみており、麦飯を否定していた。

 しかし、日清戦争で陸軍では脚気患者が四万人、死者が四千人出ているのに対して共に戦った海軍と海援隊はほぼゼロ。

 続く義和団の乱でも出征した二万人の内二三五一人の脚気患者が出た上、作戦行動で海援隊に遅れをとったのでついに陸軍も麦飯を導入した。

 麦は輸送の手間が掛かり、腐りやすいなどの反対論もあったが、脚気患者が出なかったために有効と判断され、麦が送られている。

 ちなみに史実では動員された百万人の内、戦死者が四万人、戦傷一五万人、戦地入院二五万人、入院した中で脚気は一一万人、他に在隊――部隊内で療養していた脚気患者は一四万人、合わせて二五万人の脚気患者が出たことになり、いかに脚気が深刻な影響を及ぼしたか分かる。

 なお、戦死傷者の中にも脚気患者がいたと推定されているうえ、脚気による兵士の行動力低下もあり、日本軍の行動が制限されたと見ることも多い。


「とにかく、脚気患者を出さないようにしてくれ」

「了解しました」


 疫病が軍の行動を左右することは歴史が証明している。

 ならば脚気を抑えることで日本軍の動きをよくすることは出来る。

 兵士が少しでも生き残れるように鯉之助は手を尽くしていた。

 しかし、ときに合理性を無視して対応しなければならいのが人間だ。

 特別な時くらい、めったに食べられない白米を食わせてやりたかった。


「仕方ない、たっぷりと食わせてやれ」

「さすがに酒は飲ませられないがな」


 柴少将が言った。


「ダメですか」

「飲み過ぎて、攻撃開始が遅れては困る」

「何か問題でもあったんですか」

「……会津の戦争の時、籠城した際、黎明の頃、城外へ討て出ようとしたことがあった。前祝いと言って宴をやったのだが、深酒して出撃時刻まで起きず攻撃が遅れて大損害となった」

「あー、そりゃ、ダメだな」


 悲劇で語られる会津戦争だが、意外なところで間抜けなところがあるようだ。


「まあ一杯だけは良いでしょう。寝酒にどうぞ。いらなければ良いですけど」

「そうさせてもらう」


 柴は鯉之助から一杯もらった。


「敵はどう出てくると思う?」


 柴は鯉之助に尋ねた。

 上官としてではなく、砕けた話し方だ。本心を知りたいので、敬称などは抜いた気楽案話し方にした。


「防御するしかないでしょう。最早、脱出は不可能。ならば出来るだけ、粘り、北方から本国からの増援を受けて増強した満州軍の救援を待つしかありません」

「その前に落とせるか?」

「落とせるようにしますよ」

「手立てはあるのか?」

「いくつか考えていますよ」


 鯉之助ははぐらかしながら言った。

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