北京籠城戦

 1900年6月10日、義和団二〇万が北京に入城し、清国の警備兵によって日本公使館書記官である杉山彬が殺害される。

 20日にはドイツ公使ケーテラーが殺害。

 21日には清国が八カ国へ宣戦布告し義和団の乱が始まる。

 柴達は北京の外国公使館に立て籠もり八カ国連合軍が来るまで籠城戦を戦う事になった。

 当初こそ、各国はバラバラだったが、攻撃が激しくなると先任公使だった英国公使マクドナルドの元に各国は結束。

 外国公使館周辺に陣地を作り上げ籠城。攻撃してくる義和団を迎え撃った。

 北京の海援隊は柴の指揮下に入り日本軍の主力として戦うが、その戦いぶりは各国の中でも際立っていた。

 突入しようとする義和団の集団を迫撃砲で後方と分断。

 防衛線に突入してくる義和団の先頭を指向性地雷で穴だらけにした後、機関銃で掃射して撃滅。

 各国と義和団に圧倒的な戦力差を見せつけた。

 籠城が長期間になるに従い東側の防衛線――フランス、イタリア、オーストリアの担当箇所は徐々に後退した。

 だが、柴達日本軍が担当する防衛線――北側にある東長安街で各国の担当の中で一番範囲が長い部分が保てたのは、堅牢無比な海援隊北京支店が防衛拠点となり数十名の隊士と彼らによって訓練された中国人隊員百名以上と豊富な武器によるものだった。

 北京にいた日本の民間人義勇兵にも支店に備蓄されていた豊富な予備の武器を与え戦力を可能な限り増やした。

 防御力も高かった。

 建物が強固なのもあったが、建設中の三号館の建設現場に置かれていた資材は防御拠点の構築強化に使われ、各所の防御力が高まり強固な陣地を作り上げ、義和団の侵入を防いだ。

 東交民巷は中央を御河という河が流れており東交民巷を分断していたが、置いてあった架橋資材が役に立った。

 御河の北には北御河橋がかかっており、ここにイギリス兵の防御陣地があったが、義和団の攻撃の前に撤退。

 だが柴の指示で海援隊が突撃し奪回。機関銃を据え付け、東長安街を突っ切って東交民巷へ突撃しようとする義和団に機銃掃射を浴びせ攻撃を頓挫させた。

 城壁から侵入しようとする義和団に対しては、三号棟に出来ていた塔から機関銃の掃射が行われ、殲滅していった。

 それどころか、攻撃準備の為に集まっているのを確認すると、攻撃破砕射撃として迫撃砲を義和団の集結地点へ撃ち込み撃退した。

 あまりに強固な防備のため坑道作戦を展開しようとした清軍に対して持っていた工具と予め作っていた地下室を使い逆坑道作戦を展開して先手を打って清側が掘っていた坑道を潰すこともあった。

 時おり義和団から攻撃されても、強化された防御拠点は耐えきった。

 破壊されても用意してあった建築資材で迅速に復旧し戦線を維持した。

 あまりに抵抗が激しいため、義和団は兵糧攻めを選択したが、籠城側は北京支店に確保されていた豊富な食料で食いつなぎ意気軒昂だった。

 むしろ大勢で入ってきた義和団の方が末端まで食料が行き届かず、餓える始末で、北京市民の家に押し込み強盗を働き、食料を奪い、市民が餓える有様だった。

 このような備えによって海援隊とその建築物、物資は英国公使マクドナルドを総指揮官とする各国の北京駐在兵連合軍の支えになった。

 勿論、海援隊の隊士および隊員の健闘もあった。

 寡黙だが粘り強く任務に献身的に従事し、不眠不休で勇敢に戦う海援隊及び公使館警備の日本兵の粘り強さは籠城戦に関わった各国が一致して認める程だった。

 同時に数年前から、それも戦闘の焦点になるであろう箇所に拠点を、それも頑強な建物を建設し、武器弾薬食料を揃えて準備万端整えていたことに、実質的な指揮官であった柴は非常に助けられた。

 だが、その周到さ、鯉之助が準備していた様々な備えに柴は喜びではなく、不気味を通り越して恐怖を感じた。

 そして八カ国連合軍の救援部隊が北京の城門を突破し、柴達と合流した時、柴の恐怖は最高潮に達した。

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