第三軍総司令部

 ダイサングンシレイブ


 と筆でカタカナで書かれた表札のある建物に鯉之助は入った。

 カタカナで書かれているのは防諜対策だ。

 ロシア人は感じは読めないが地元の中国人は読める。

 もしロシア軍に情報を売り渡す中国人スパイがいたら、感じを読める彼らはロシア軍に通報するだろう。

 そこで日本軍は中国大陸では表札を中国人が読めないカタカナ表記にして秘匿を図った。

 多少は効果が出たらしく、初めのうちは情報が流れなかった。


「いずれ、知られるだろうが、何もしないより良い」


 そう思いながら鯉之助が案内された応接室で待っていると相手がやってきた。

 洒脱に制服を着こなしながらも威厳と風格を放つ白髭をはやした老人。

 だが背筋は伸びており、かくしゃくとしていて年を重ねた古武士という肯定的な印象のみで老化という否定的な印象を抱かない。

 それが第三軍司令官乃木希典大将を初めて見た鯉之助の感想だった。

 日清戦争後、休職し八年ほど那須で農民をしていたとは思えないほど、立派だった。

 だが休職中も度々演習などを観戦し、軍事知識を頭に入れているととのことだ。


「ようこそおいでくださりました」


 階級が下であるにもかかわらず鯉之助を親しげに迎え入れる姿は好感が持てた。


「旅順攻略に参加してくださるそうですね」


 乃木が確認するように尋ねてきたため鯉之助も尋ねた。

 つい先日、独力で第一回総攻撃を行い、一割近い六〇〇〇名の死傷者を出して敗退している。

 むしろロシア軍の逆撃に遭って戦線が後退してしまった程だ。

 通常ならば、総兵力の一割の損害は指揮官の進退が問われる程の大損害だ。

 未だに乃木が総司令官を務めているのは乃木大将が優れているのと大本営と満州軍総司令部が無理な命令を下したと認識しているからだろう。

 乃木を非難するのならば、お前、できるのか、と問いただしたい。

 できる人間などいないだろう。

 せいぜい大損害を出して無能と一生言われ続けるだろう。

 だが、旅順は是が非でも攻略しなければならない要塞だった。


「やはり早期に攻略するのですか?」


 恐る恐る鯉之助は尋ねた。

 当初の計画では、大連を確保した上で二個師団で旅順を封鎖する予定だった。

 しかし、ロシア太平洋艦隊の撃滅に失敗し、独力で解決できなくなった海軍が陸軍に攻略を依頼していた。


「大本営からの命令ですから」


 乃木大将は静かに答えた。


「できる限り早く攻略するので攻略を、詳しいことは伊地知から」


 早くという言葉に鯉之助は不安を感じた。


「それでは説明させていただきます」


 奥に控えていた参謀長の伊地知幸介少将が、前に出てきて説明を始めた。

 明治一三年にフランスへ四年後にドイツへ留学。ドイツ留学中に視察に来た乃木の通訳を務めている。

 砲術が専門だが、海外の経歴が豊富で日清戦争後もイギリス駐在武官、京城公使付など海外に出ている。

 その間に参謀本部の第一部長や野戦砲兵監を務めるなど軍の要職を務めている。

 三流小説では無能と書かれているが、この通り非常に優秀な人材だ。

 特に開戦直前に着任した京城公使付での活躍はすごかった。

 仁川にやってくる第一二師団の木越旅団を受け入れる宿舎を用意し、開戦を欺くため、前日夜に晩餐会を開きロシアを油断させた。

 お陰で開戦後、木越旅団は無事に一兵も損ねること無く上陸した。

 事後処理として京城にあったロシア公使とその護衛の移送問題も伊地知が無事解決し国際問題にしなかったことは功績として認めて良い。

 開戦直後、迅速に日本軍が半島へ進出できたのは大韓帝国に詳しい伊地知がいたためと言っても過言ではなかった。

 その伊地知が第三軍の参謀長に任命されたのはこのような功績があるからだった。


「目下の作戦ですが、八月上旬の第二回総攻撃をめざし、大連近くまで出てきたロシア軍部隊を排除しつつ要塞外郭へ接近します」


 説明にはなかったが七〇〇〇名の死傷者を出したが、予備大隊や補充中隊のお陰で定数が満たされた部隊が大損害を受けた中隊と交代。内地撤退と内地からの増援部隊受け入れを行っており、第三軍は戦力を急速に回復していた。

 すぐにでも作戦開始できる状態にまで回復していた。


「その後は指揮下の第一師団、第四師団、第九師団を要塞北東方面より攻撃させます」


 伊地知少将が立案した作戦は非常に順当だった。

 大連から旅順へ通じる鉄道と道路は北東から続いているので攻略部隊を展開するのに旅順の北東方面から進撃するのは非常に良い。

 ちなみに史実であれば第一一師団が投入されるのだが、替わって第四師団が投入されたのは鯉之助が訳があって要請したからだ。


「参謀本部次長の長岡少将や満州軍参謀の井口少将は平坦な土地の多い北西方面からの攻撃を主張しておりますが」


 鯉之助は伊地知に尋ねた。

 有名な二〇三高地を含む北西方面は北東方面より山が低く、堡塁が少ないため攻略しやすいように見える。

 特に長岡少将は防備が不十分だとして北西方面からの攻撃を主張していた。


「北西方面は確かに平坦で観測点を得やすいでしょう。しかし、稜線が二重にあり防衛線をそれぞれに敷けますし外側からは観測できません。そして北西方面へ行くには旅順の正面を横切る必要があり、敵に横腹を曝します」


 敵が立てこもる要塞とはいえ、目の前を無防備な横腹を見せながら移動すれば要塞にこもるロシア軍が出撃してきて攻撃を受ける。

 下手をすれば第三軍は横腹を突かれる――側面攻撃をうけて壊滅。

 攻め込んだロシア軍は大連を占領して補給路を断ち、南山を超えて北上中の日本陸軍主力の後方を襲撃する可能性がある。

 そんな危険を冒すことはない。

 勿論、半島を進撃しても制海権は日本側にあり簡単に撃退できる。

 しかし、補給拠点にしている大連が攻撃されて一時的にでも補給が断たれ、第一軍が混乱するのは避けたい。

 むやみな攻撃は厳禁だ。


「北西方面への鉄道も道路も不十分です。補給が出来ません」


 要塞攻略戦は大量の物資を必要とする。大連が近いとはいえ補給線は短い方が良い。

 特に大量の物資を輸送できる鉄道が遠いのが弱点だ。

 軽便鉄道を敷設することは出来るだろうが、時間がかかる。


「攻撃は敵が対応できないよう一斉攻撃を行います。北西へは補助攻撃を行い、敵の戦力を分散します」


 それに敵に目標を絞らせず攻撃を分散させる作戦案は良かった。

 戦力を一点に集中できないが、敵も何処を守れば良いか分からず、守備兵力を分散させるだろう。

 強固な堡塁にどれだけ役に立つか分からないが。


「その後、望台に戦力を集中して旅順要塞を落とします」

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