好古とアレクセーエフ
「閣下、敵の将軍をどうしましょうか。捕虜にしますか」
止めた列車から引き出したアレクセーエフに銃口を向けた部下が尋ねてくる。
本当は将軍ではなく、海軍提督にして満州総督なのだが好古の部下はアレクセーエフの顔を知らないため、着ている服の華美さから将軍と判断しているのだろう。
将軍といってもせいぜい旅団長か師団長クラスと考えており、敵軍総大将の極東総督とは思いも寄らないのだろう。
アレクセーエフは好古の方を見た。
声を掛けようとしたが黙った。
もし自分がアレクセーエフと分かれば、兵卒でも自分を殺そうとするのではないか、と思ったからだ。
アレクセーエフは懇願するように好古を見る。
好古は少し考えてから部下に答えた。
「解放して差し上げろ」
「逃がすのですか? しかし……」
好古の言葉に兵士は驚いた。将軍を捕虜にしたら大金星であり勲章ものだ。
だが好古はしないと宣言し、もっともだ、という態で兵士に言う。
「いや、実は閣下は義和団の乱の時と清国駐屯軍時代に私が大変お世話になった方だ」
好古が第五師団にいた頃、義和団の乱が起きて、第五師団は出兵、好古も北京へ従軍した。
アレクセーエフも義和団の乱で出兵し満州を占領する功績を挙げて中将に昇進していた。
その後、好古は清国駐屯軍に転属し、アレクセーエフも極東総督に任命され、幾度か折衝のため会談したことがあった。
のちに好古は騎兵第一旅団旅団長に任命され、帰国したが、アレクセーエフの事は良く知っていた。
「たいそう良い方で私の恩人なので捕虜にしては、将軍の沽券に関わるし私も居心地が悪い。解放して差し上げろ」
「しかし、敵の将軍ですよ」
「私は忘恩の輩になりたくない。武士の情けじゃ、このまま、見送って差し上げろ。お前達には私から後で酒を渡そう」
「了解しました」
不承不承ながら部下は敵の将軍を、実はアレクセーエフを解放して見送った。
騎兵実施学校の校長であった好古の教え子、いや日本騎兵の父と呼ばれる好古に言われては、しかたない。
それも毎日五合は酒を飲み、今も水筒に酒を入れて持ち歩いている好古が酒を部下に渡すと言っているのだ。
そのような頼み、断れるはずがなかった。
「名将はすぐに殺せ。味方を殺しに来る。だが愚将は生かしておけば敵軍の戦力を勝手に削いでくれる」
「何か?」
「いや、少し昔習った故事を思い出しただけだ」
アレクセーエフが去りゆく姿を見て呟いた言葉を部下に聞かれ好古は誤魔化した。
陸軍に入る前、師範学校で教員になるための勉強をしていた頃の中国の古典を思いだしたのだ。
アレクセーエフの事を好古は良く知っている。
海軍軍人を務め大将に就任したが対日強硬論を主張し、皇帝に贔屓されただけだ。
アレクセーエフに軍事的能力は殆ど無い。
せいぜい軍艦の艦長が務まる程度で、行政能力もない。
所謂愚将だ。
ああいう人間は、生かして敵軍を混乱させてくれるに限る。
「しかし、鯉之助はこのことを考えて命じたのか」
鉄道線の遮断は鯉之助の依頼で命令が下されている。
ただ、出撃前に万が一アレクセーエフを捕まえたら解放して欲しいと依頼していた。
一旦は断ったが、鯉之助の主張、愚将は敵軍の脚を引っ張るという離しに納得して承諾した。
「閣下? どうされました? やはり敵将軍を捕らえますか? 今ならまだ間に合います」
功はやる部下が、聞き返してきた。
敵将を捕まえて手柄にしたいのだろう。
その気持ちは分かる。
だが、大局を見れば、生かして返した方が日本軍の為になる。
「いや、何でもない。一度解放したのだ、再び捕らえるのは格好が悪い。追いかけるなよ。それより列車に残された物品を回収して帰還するぞ」
「了解!」
アレクセーエフを逃がしても、好古は残されたものを最大限に利用するつもりだった。
列車に乗せられていたアレクセーエフの持ち物や彼の司令部の備品――軍の配置図などの機密文書を押収する。
いや、これこそが列車を捕らえた最大の戦果であり戦利品だ。
ぱっと見ただけでも、旅順要塞の配置、構造、兵力の配置、総数は勿論、旅順艦隊の損害と修理の見込み、ロシア満州軍の兵力と配置、鉄道付属地の行政文書、ロシア軍の情報源など様々な情報が残されていた。
アレクセーエフや幕僚達個人の手紙、高官同士のやりとりの中に、重要な情報――公文書には残せない率直な彼らの感想や見解が書かれており、相手の頭の中を見ることが出来る。
これだけでも一個軍を手に入れたような価値がある。
「閣下! 敵が接近します!」
「全て積み込んだな! 撤退するぞ!」
敵の守備隊が接近してくるのを見た好古は列車に火を掛け文書を奪った証拠を隠滅すると敵に追撃される前に撤収していった。
そのまま一目散に逃走し、第二軍司令部へ駆け込み文書を提出。
すぐさま日本の大本営に送付され、今後の日本の作戦行動を大いに助け、この後の戦いを大きく左右する。
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