鴨緑江を望む老人
鴨緑江を望む南岸の高台に編み笠をかぶった老人がいた。
笹の葉でくるまれた握り飯を取り出し口に頬張りつつも、鴨緑江周辺へ向ける視線を外さない。
ロシア軍二万五〇〇〇が待ち構えている対岸は特に視線を向けた。
対岸では九連城を中心に各所でロシア軍によって陣地の構築が行われおり、随所で大砲が配備されているのがよく見えた。
その動きを老人はじっと見続け観察していた。
「ここにおりましたか閣下」
振り向いたとき声を掛けてきた人物はいなかった。
だが茂みから青年が出てくるのを見ると老人は顔をほころばせた。
青年は弾を弾きやすい丸みを帯びた形状と耳と後頭部を覆う縁が出た高マンガン鋼で出来た鉄帽を被りカーキ色の軍服と複数のポケットと防弾板を装備した上着を纏っていた。
「柴崎中佐か」
「はい」
中佐と言われて照れながら柴崎芳太郎は答えた。
軍人を志しつつも現金獲得という現実的観点から様々な、役得の付く台湾守備隊へ入隊。軍務は真面目にこなしていたが、より適性のある同期に抜かれたため、ちょくちょく手伝っていた測量部へ移り文官として日本各地を測量していた。
主に日本アルプス周辺の測量を担当し史上未踏とされた剱岳への初登頂を果たしたが、そこで錫杖を見つけ出し、近代登山史上という文字が追加される事になった。
その後も日本各地を測量していたが新設部隊を設立することとなり、再び武官、それも中佐として戻ることとなった。
人生思いがけない事の連続だが、辿ってきた道が自分を形成するという実例だった。
目的の人物である老人を見つけられたのも、測量の経験からだった。
「敵陣を全て見渡せるのはここですから」
対岸を見やすい地点を地形から割り出して柴崎は訪れたのだ。
「突破できそうでごわすか?」
紺色の軍服を着た老人は柴崎に尋ねた。
老人は編み笠に草鞋を身に纏っており、通常なら服装規定違反であり上官から注意を受けるが、この場、少なくとも朝鮮半島に老人の上官はいなかった。
「敵の位置と地形によりますが、見た限り可能です。敵はここから下流に陣地を構築していますから、上流から渡河して背後へ回り込むことは可能です」
ここ数日周辺の山を登山し、地形を確認していた柴崎は可能と考えていた。
同じ山域の内側なら似たような地形が多く、著しく異なる事は少ない。
こちら側と同じような山々なら、渡河した後の山々も踏破可能と柴崎は考えている。
そしてロシア軍は、河口への上陸作戦を警戒しているのか上流への警戒は少なく、部隊の配置も少ない。
もっとも、ヨーロッパの兵学では山岳部での大軍の行動は移動と補給困難のため不可能とされている。
大河とはいえ、山間の地形に大軍を配置するのは非常識と言えるので警戒する必要など無い。あえて配備するのは、兵力の分散、もっといえば臆病者、杞憂が過ぎると評価されかねない。
だが、柴崎の部隊はそのような事はない。
山岳部隊はそのような地形での行動を、走破を想定し編成訓練された部隊だった。
「少なくとも半分は到達できると考えます」
柴崎は自信を持って言った。
半分と言ったのは敵の反撃ではなく、運悪く登攀不能なルートに当たってしまう可能性を考えた上での判断だった。
山岳部隊は纏まって行動する事は無い。
中隊規模に分かれてそれぞれのルートを進み、目的地へ向かう。
登攀不能なルートだった場合、引き返し他の部隊のルートへ変更。
もし途中で敵と出会ったら交戦。
残りの部隊は迂回して敵の側面あるいは背後に回って援護、もしくは目的地に向かい敵を孤立させる。
部隊を横に並べて乱れなく進む平野と違い、ルートが限られる山岳地帯特有の行軍戦闘方法だった。
柴崎の想定ではいくつかのルートでは敵が防御陣地や障害物を構築している可能性が高い。
だが、山岳部隊の能力ならばこの地形であれば迂回可能と柴崎は判断していた。
「そうでごわすか」
柴崎の答えに日本帝国陸軍第一軍司令官である黒木為楨大将は笑った。
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