ロシア帝国皇帝

 ニコライの静かだが怒りに満ちた声に、周囲は勿論、浴びせられたゲオルギーは恐怖で凍り付いた。


「そのような事はございません」


 皇帝の勘気に触れたゲオルギーは慌てて頭を下げた。

 ロシアはビザンツ帝国の末裔であり王権神授説に基づく神に選ばれ恩寵を与えられた皇帝を抱く国である、とロシア国内では広く信じられている。

 農民の多くは皇帝への崇拝に似た忠誠を抱いており、貴族にもそう信じている者が多い。

 その怒りは神の怒りに等しく、浴びせられれば心の奥底から恐怖を感じる。

 皇族であるゲオルギーも例外ではなく、皇帝の怒りに震えあがった。


「そのとおり、皇帝は神の代理人であり神聖不可侵。帝国の絶対者であり小国ごときと交渉する必要は無い」


 強い口調で皇帝は言った。

 近年は知識階級が反発し、皇帝崇拝という幻想を打ち破り、皇帝の権威を落とすため、皇帝も人間であると示すためテロ行為を行うようになった。

 ニコライとゲオルギーの祖父である二代前の皇帝アルクサンデル二世は、農民解放を訴える過激なテロ組織「人民の意志」による爆弾テロを受けて暗殺され、この世を去った。

 このような情勢では弱気なところを見せられない。

 むしろロシアにおいては皇帝は絶対的な強者であり、弱みを見せられない。

 世界最大の領土を領有し、いくつもの民族を抱え込み、多くの人口を有しながら教育水準は全ての階級で低く、政府の統制が行き届きにくく、統治が難しい大国ロシア。

 皇帝の専制的絶対的権威と崇拝がロシア帝国と人々を結びつける唯一の絆、命綱と言えた。

 弱いところを見せれば権威と崇拝に疑問が生まれ、帝国は崩壊する。そうロシア帝国はロマノフ王朝は信じていた。

 決して、他国にも、自国にも皇帝の弱気なところを見せる訳にはいかなかった。


「東洋の小国日本など何するものぞ」


 絶対君主としてニコライ二世は周囲に向かって強い口調で言った。

 周囲にも自分の侍従に対しても弱気なところを見せるわけには行かなかった。


「ですが陛下」


 それでもゲオルギーは諫めようとする。


「日本は四〇年前の開国後急速に発展し、アラスカを購入、清に勝ち、ハワイやフィリピンは勿論、英国とも同盟を結んでおります」


 1893年のハワイ革命とその後の混乱の中で日本と海援隊はアメリカと交渉しハワイの独立を保障すると共にアラスカを購入している。

 その後アメリカから独立したフィリピン――半ば公然と海援隊が援助していた事もあり日本とフィリピンは同盟している。


「だが所詮小国。我がロシアに比べれば何のことはない。不凍港のポートアーサー、――旅順を放棄など出来ぬ」


 ロシアはかねてより不凍港が欲しかった。

 特にニコライの思いは強く、英国との対立が懸念される中、三国干渉により返還された旅順を占領し強引に租借。

 英国が反対する中、ここに要塞と軍港を作らせた。

 旅順を放棄するなど考えられなかった。


「しかし、旅順を得てもその先には日本列島があり、太平洋に出るには日本を無視できません。そして、太平洋の先には日本の同盟国もいます。戦い、関係を悪化させるのは上策ではありません」


 ロシアは海を求めて戦ってきたのは歴史からみても明らかだった。

 海の内陸国であり大陸国家のためだ。

 だが、海と接した人間が少ないため、海の向こうと貿易すること、利益を上げるために必要な事を理解していない。

 約束を破り、侵略を行う様な国と貿易しよう、と思う国はいないのだ。

 例え、強大な国家でも豊富な資源を持っていても、約束を違えるというなら相手にしない。

 一時的に成功したとしても破ったりしたら信用できないと判定し、別の相手と交渉するだけだ。

 強圧的な態度で貿易が成功するハズがなかった。

 だが、そのような交渉スタイルはロシア皇帝のやり方では無い。

 しかも、皇帝のまねをする貴族や官僚、軍人が多く、日本への蔑視も広まっていた。

 これをゲオルギーは止められなかった。


「現在、お前の献策によりイタリアのクニベルティの指導を受けつつ海軍は新たな戦艦を建設している。それを使えば勝てるだろう」

「ですが、完成しておりません。それに旅順に送ったとしても日本を侮ってはなりません。日本の実力は我々の想像以上です」

「クロパトキンは日本を見て日本を恐れたが、お前は日本を見ずに恐れよというな。東洋の神秘か?」

「兄上……」


 ゲオルギーは無力をかみしめた。

 その様子を見たニコライは罪悪感を感じ、命じた。


「マカロフと潜水艇の乗員に聖ゲオルギー勲章を授与。その他戦功のある者にも勲章をツァーの名において授与する」

「ありがとうございます陛下」

「ロシアに尽くした者を賞するのは皇帝の役目だ」

「はい、私もロシアのために戦費の調達、部隊の増援準備などを行わせて貰います。それを元に、バルト海艦隊を極東へ、旅順への増援として送り込みたいと思います」

「それほど必要か?」

「既に多くの艦船が損傷を受けております。日本を懲罰するためにも増援が必要です。なにより圧倒的なロシアの力を見せつけてやりましょう」

「そうだな。その通りだ。艦隊の派遣を命じる。ロシアの営口のため勝利をもたらすため、ツェサレーヴィチにはその職務を遂行して貰いたい。」

「ありがとうございます。必ずや成し遂げて、うっ」


 ニコライの言葉に安心したゲオルギーの体が一瞬崩れた。

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