ロシア皇帝 ニコライ二世

 ツァーの元へ向かったゲオルギーは近衛兵に面会を求めた。

 暫し待たされたが五分も経たずに執務室のドアをくぐった。

 普通なら大臣でも面会の予約をして数時間待たされる事が多い。

ゲオルギーがツェサレーヴィチのため早く処理してくれたようだが、かつてより遅くなっている。

 ツァー、兄との間の溝が広がっているのをゲオルギーは感じた。


「ツァーよ」


 ゲオルギーは、執務室に入ると頭を垂れた。

 兄と弟だが、皇帝とその継承者、いや絶対君主の皇帝とその臣下であるため、ゲオルギーも頭を下げなければならない。


「おお、ゲオルギーよ」


 ニコライ二世は、笑顔を浮かべたが、ゲオルギーの記憶にある笑顔ではなく、臣下に向ける作り笑いだった。


「また何ぞ不穏な事を言うのか」

「極東で日本との戦争が起きているのです。不穏な知らせは多く来ます」

「戦争が起きたのは黄色い猿が身の程をわきまえないからだ。我がロシアに敵うはずが無いのに身の程知らずが。戦う気骨は認めるが、我がロシアに刃向かった報いは受けさせねばなるまい」

「ツァーよ」


 あからさまな日本への蔑視、侮りをゲオルギーは嘆いた。

 日本で警官に切りつけられた時以来、日本を蔑視する事をニコライは止めない。

 それが日本への侮りに繋がっており、戦況を直視していないので対応が後手に回っている。

 しかし、ゲオルギーは諦めず、話を続けた。


「マカロフが戦死しました。日本人は黄色い猿ではなく恐ろしい相手です」

「ゲオルギーよ。結核が治ってからお前の冗談は面白さが無くなった。かつての方が良かったぞ」


 手元の紙を見て残念そうにニコライ二世は言った。

 小さい頃からゲオルギーは頭が良く、よく冗談を言っていた。

 その冗談を兄であるニコライ二世は、心から楽しみ紙に書き残し小箱に入れて大切に保管し、今でも開いて読み返している程だ。

 しかし、結核の症状が治まってからのゲオルギーは快活になりツェサレーヴィチとしての仕事を精力的におこなっているため近くに居ることが少ない。しかも、たまに会えば諫言ばかりでニコライは疎ましく思いはじめていた。

 ニコライ二世が自分を疎ましく思っていることもゲオルギーは感じ取っていた。

 しかし、事実を言わなければロマノフ王朝はお終いだ。

 そのことをゲオルギーは知っているだけに、勘気を受けようと言わざるを得ない。


「陛下、日本は想像以上の早さで攻め上がってきています。直ちに対処しなければ」

「既に対処しているではないかゲオルギー。お前の進言に従いクロパトキンとコンドラチェンコそしてマカロフを赴任させた。旅順の要塞を強化して、戦艦の主砲にも耐える掩体壕と無数の防御施設を立てた。軍備に関しても新たな選抜兵師団を作り満州へ送り出し、海軍にもボロディノ級の倍の大砲を持つ新たな戦艦を作らせている。どれほど国の富を使ったことか。それも日本を侮るなというお前の言葉を受け入れたからだ。私に警官が斬りかかるような愚かしい国に、ゲオルギウス以外、誰も助けようとしない国に」


 両親の勧めで1890年から翌年にかけてニコライは見聞を高めるため世界旅行に向かった。ゲオルギーも同行したが風邪をこじらせ、途中で帰国してしまった。

 ゲオルギーと一緒に行くことを楽しみにしていたニコライは消沈したが途中で参加した従兄弟でありギリシャの王子ゲオルギウスと共に主に極東を巡った。

 日本も日程の中に含まれており、訪日しニコライは楽しんだ。

 当時のヨーロッパ王族の間では日本は話題で、日本に着いたら入れ墨を入れるのがはやりとなっていた。西洋にはない独特な絵柄が神秘的で珍しいからだ。ニコライも滞在中に右腕に龍の入れ墨を入れるほど楽しんでいた。

 だが大津を訪れた時、警備にあたっていた警官津田三蔵にサーベルで斬りかかられニコライは右耳を負傷した。

 対立しつつあったが大国ロシアの皇太子に警官が斬りかかるという前代未聞の不祥事に明治政府は狼狽。明治天皇が自ら見舞いに行きロシア軍艦の晩餐会に――拉致の危険もあったが出席し収めるという大事件になった。

 日本にも大きな影響を与えた大津事件だが、ニコライの心情にも変化をもたらし事件以来、ニコライは日本人を猿と呼ぶようになった。

 公的な発言こそしないが、家族や周辺に日本を侮る言葉を使う事が多い。

 そのため日本を侮り、必要な手を事前に打てなかった事が多かった。


「ツァーよ。戦いに赴き死ぬのはロシアの民であります。相手を侮り、いたずらに死なせることはどうかおやめください」

「言われなくても分かっている」


 ゲオルギーの言葉にニコライは、不機嫌になった。

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