ゲオルギー
「マカロフが戦死しただと!」
その一報をサンクトペテルブルクの冬宮殿で受けたゲオルギーは絶句し椅子に倒れ込んだ。
「で、殿下!」
煩っていた結核は緩解し温かいコーカサスの療養所から北のサンクトペテルブルクにゲオルギーは戻ってきていた。
だが病気によってダメージを受けた身体は弱いのはそのままであり、時折倒れてしまう。
にも拘わらず仕事を行うゲオルギーを侍従は心配していた。
「くっ、ツェサレーヴィチとして不甲斐ない事だな」
椅子に倒れ込んだゲオルギーは侍従に聞こえない音量で舌打ちした。
ツェサレーヴィチ――ロシア帝国次期皇帝継承者として精力的に仕事をしているが、弱った身体を無理矢理動かしているようで、ゲオルギーの体の病状悪化を懸念している。
「大丈夫だ。大事ない」
駆け寄ってきた侍従に手を上げ大丈夫だとゲオルギーはアピールする。
そして御付武官に尋ねた。
「マカロフは機雷にやられたのか?」
「いえ、潜水艇による攻撃であると海援隊は発表しております。事実は現在調査中ですが、ほぼ間違いないかと」
敵の発表を鵜呑みにするのは愚かであり特に戦時中はやってはならない。
自分達の情報源から確実な情報を得て事実を知ることが大事だ。
特にロシアは情報戦に力を入れており、自国のスパイをразведчик ――ラズヴェーッチックと呼んで英雄視し、他国のスパイをшпион――シュピオンと呼んで蔑視している。
それほど情報収集に関心を持っているのがロシア人だった。
「情報収集には全力を尽くしてくれ」
だが、日本や極東に対するロシア帝国の情報収集は上手くいっていなかった。
東洋へ進出したがロシア人はまだ少なく現地に溶け込むことが出来ずにいた。
特にロシアは満州を占領しており、現地の住民の反発を受けていたので、なおさらだった。
西洋人と東洋人の容姿の差、それ以上に考え方の差があり、ヨーロッパに憧れを持ちアジアを蔑視しているロシアは有益な情報収集が出来ずにいた。
一方の日本も、ヨーロッパでの情報収集で遅れを取っていたが、共通の敵であるロシアへ対抗する周辺国との間にネットワークを作りつつあった。
また日英同盟により英国から情報が多数送られてきていた。
ロシアの情報だけでなく、ヨーロッパ全体、特に列強とされ動向が気になる独仏の情報、英国が開発した最新技術の情報など、日本単独では手に入れられない情報が入ってきており、戦局を優位にするのに役に立っていた。
情報面で日本とロシアでは既に格差が出来ていた。
「旅順に送り込んだホランドの潜水艇は役に立たなかったか」
開戦前にアメリカのホランド社に注文して購入したホランド艇をゲオルギーは旅順とウラジオストックへ船便で送り込んでいた。
戦艦の建造を行っていたがどうしても完成に数年かかるため、比較的短時間で購入、組み立てが可能な潜水艇を購入した。
まだ性能は低く、事故も多いが、日本艦隊の行動を、旅順への接近を少しでも阻もうとした。
「いえ、我が潜水艇はマカロフ提督の命令の下、出撃し海援隊の戦艦と駆逐艦を撃破しております」
精一杯、御付武官が言ったがゲオルギーが目を向けると怯んだ。
「撃沈したのか?」
「……いえ、残念ながら……沈没はしなかったようです」
歯切れ悪く御付武官は答えた。
戦艦を沈められているのに、敵には損傷しか与えられなかったことを心苦しく伝えた。
同時に前線は何をしているんだと御付武官は思う。
「いや、敵に打撃を与えたのだ。彼らは十分にやってくれた。彼らは帝国の英雄だ」
心の中で八つ当たりする御付武官をゲオルギーはなだめ、潜水艦の乗組員を賞賛した。
実際、彼らは敵に打撃を与えていたし、日本艦隊は潜水艇を警戒して、寄りつきにくくなるだろう。
このような気遣いがあるからこそゲオルギーの周りには人が集まっていた。
「成果を上げた潜水艦の乗組員は?」
「残念ながら未帰還です」
「彼らに聖ゲオルギー勲章を与えられるようにしよう。マカロフにもだ」
聖ゲオルギー勲章はエカテリーナ二世によって1769年に制定されたロシア帝国において軍人に与えられる最高の勲章であった。
パレスチナ生まれのキリスト教徒で竜退治で有名でモスクワの守護神である聖ゲオルギーの名を冠している。
ツェサレーヴィチであるゲオルギーの名も聖ゲオルギーからとられている。
それほどまでに聖ゲオルギーはロシアで浸透し勇名となっており、その勲章は憧憬が抱かれていた。
勲章の黒いエナメルに刺繍された「奉仕と勇気のために」の文言を体現する人物に与えられるに相応しい名称の勲章だった。
「し、しかし、勲章を与えられるのはツァーリのみです」
専制政治が行われているロシアでは皇帝が全ての権限を握っている。
皇帝に全ての権限が集中しており、その権限集中によって皇帝の権威と地位を確立している。
特に勲章の授与は授与者を貴族へ引き立てる意味もあり、褒賞であると共に皇帝が国民に与える恩寵でもある。
だが、同時にこの専制政治の欠点として何を行うにも皇帝の許可が必要だった。
ならば、行う事は一つだった。
「兄上、いや、陛下に進言する」
ゲオルギーはそう言うと、自分の兄、皇帝ニコライ二世の執務室へ向かった。
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