日本と山岳戦
「やれやれ」
十年の内に突然昇進していった柴崎は今でも戸惑い気味であり、疲れていた。
だが日本帝国陸軍の置かれた状況が柴崎の昇進を後押しした。
日本陸軍が範とするドイツ帝国陸軍の思想はナポレオン戦争後半、ドイツ戦役とフランス戦役を基本としており、ヨーロッパ平野での野戦を重視していた。
その研究成果はドイツ的几帳面さが存分に発揮され他国の追随を許さず、先の普仏戦争でフランス軍を完璧に撃破した。
野戦での実力は、20世紀初頭において最強を通り越して芸術的とさえ言えた。
勿論、何処の組織にもありがちな失敗や、大小の欠陥はあったが野戦に関していえば1904年時点でドイツ陸軍は世界最強であり、満州平原を決戦場に設定した日本帝国陸軍がドイツに学んだのは決して間違っていない。
だが、他の分野に関してドイツは野戦ほど熱心ではなかった。
沿岸への上陸作戦もそうだが、日本が防衛線と定めた朝鮮半島と満州の間に山岳地帯があり、ここを守るあるいは突破するのに専門の部隊が必要とされた。
海援隊への対抗心から残された海兵隊、そして大陸への発進基地である宇品港を持ち大陸への斬り込み部隊に指定された第五師団が上陸作戦を研究していた。
しかしドイツが重視していない山岳戦に関心を日本陸軍は日清戦争まで向けていない。
だが、無視できない事態が発生した。
海援隊がアラスカを購入して以来、アラスカ統治と防衛のための専門部隊を創設。本拠地に近く海援隊関連の工場の多い北海道の大雪山系に戦技研究と装備開発のための教導部隊として山岳部隊を編成した。
陸軍との合同演習で、その機動力を見せつけた為、陸軍は対抗上山岳部隊を編成せざるを得なかった。
だが山岳戦に関しての分野の研究は日本陸軍では皆無に近く、日本の歴史でも山間部での戦いは少数の事例があるのみ。頼りになる文献は少なく近代装備を使った事例など皆無だ。
一応、1872年にイタリアで編成されたのアルピニ――イオタリア王国陸軍山岳連隊を手本にしていたが、アルプスを作戦地帯にしている彼らと、日本の山脈、朝鮮半島は気候が違うし、手に入れられる原材料――防寒着の素材となる毛皮や輸送機材などが違う。
以上の理由から山岳戦の研究は手探りで行わざるを得ず、登山経験者を掻き集めて急ぎ部隊編成した。
そして風雲急を告げる日露間の関係上すぐさま部隊が必要であり、海援隊を凌駕するには陸軍内の経験者を長に据えて部下を育成し部隊を編成するという荒技を使わざるをえなかった。
結果、日本陸軍は海外留学もしていない柴崎を三〇にも満たない若さで短期間で連続昇進させ中佐、連隊長の地位に就かせた。
陸軍創設時の気風――諸藩の連合で制度が整っておらず、優秀な人材をヘッドハンティングして要職に就け泥縄式に組織を作り出していた頃の雰囲気が残っていたからこその措置だった。
また、民間人の知識や経験を柔軟に取り入れたアルピニの伝統に学んだ事もあり、積極的に動いた結果、短期間で精強な部隊が出来た。
「あー胃が痛い」
船室に入った柴崎は胃がムカムカするのを感じた。
このまま船に長時間乗ってしまったらひどい目に遭う。
だから荷物の監督という名目で連絡船に乗った。何時出航するか分からない船団の船より定時に出航する連絡船に乗っている時間を短くするためだ。
それぐらいは連隊長の特権を使っても文句はないだろうと思っていた。
連隊長という職務以上に中佐という階級章と佐官の服になれていない事もあり、いつも以上に酔いやすい。
ただ、不自然なほど昇進を果たし周囲から嫉妬の視線を受けて居心地が悪くなるよりマシだった。
部下の中にも追い抜かれて不満を持つ者もいるが階級が上という事実をもとに泰然とすることにしていた。
柴崎が部下、特に大隊長クラスの士官に嫌われている理由はほかにもあった。
士官になったにもかかわらず柴崎がやたらと下士官兵や雇員になれなれしいからだ。
軍隊では自己完結性が求められており、特に戦闘部隊は配属された部下のみを使って行動する事を好む。
しかし、柴崎はあえて山岳地帯出身の雇員を積極的に雇った。
測量官の癖が抜けないと陰口が叩かれたが。
「雇員を扱えずに仕事が出来るわけがない」
といって止めなかった。
実際、歩兵などから移ってきた士官より、新たに採用された下士官や兵士、雇員のほうが、元々山で仕事をしていた彼らの方が山岳での行動上有益だからだ。
測量官と言っても測量の知識と技術があるだけだ。
無論、柴崎の担当が山岳地帯が多かったため山に登ることが多い。しかし、測量機材、特に四メートル以上もある測量用の標識や基準となる柱石はもちろん、それらを設置するための機材を運び込む必要がある。
そんなことは測量官一人では不可能だ。
それに、設置場所の探索、確認も行う必要があり、役所への報告や連絡調整、測量記録の整理などがあり、山に登るだけでは作業は終わらない。
だからあらかじめ助手を雇ったり、現地で作業員雇ったりして実際の作業を任せることが多い。
特に現地では奥深い山に入るため地元に詳しい案内人が必要不可欠で、そうした人材を見つけ出し良好な関係を築き、作業を進めることが測量官の本質と言っても過言では無く、柴崎はそれに慣れていた。
実際柴崎が測量官時代剱、崖絶壁で登頂不能とされた剱岳を登頂できたのは雇員であり案内人の宇治長治郎が、柴崎の残雪を足場として利用し絶壁を登るという案を実行し成功させてくれたからだ。
地震の登山の経験も技術もあるが測量で役に立ったのはそうした雇員の管理能力であり現在も役に立っている。
そして柴崎が大隊長や幕僚に嫌われるもう一つの理由が、大隊長達の部下達である下級士官、特に第一線で指揮を執る少尉や中尉クラスの士官――日本山岳会出身で士官として従軍する彼らから一目置かれており、彼らが事あるごとに柴崎に話しかけてくることだ。
特に日本アルプス周辺とアラスカでいくつもの山に登り測量を行ってきた柴崎の経歴を彼らは尊敬しており、階級だけが上の大隊長や中隊長よりも慕われていた。
その特質も陸軍上層部は評価しており、手本にしたアルピニの精神、民間の経験や知識を取り入れる行為を体現している柴崎が急速に昇進させた理由であった。
山岳部の知識のある人間に伝のある人間が必要であったので、測量官として日本アルプス周辺の住民を長年雇ってきた柴崎は山岳部隊の隊長として格好の人物だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます