柴崎の半生と日本の変遷
「ようやく出航か」
柴崎芳太郎中佐は船の甲板でほっとしていた。
ウラジオストック艦隊の動きが分からず、警戒のために船団は出港を見合わせていた。
だが、北海道にウラジオストック艦隊が現れた事が判明し、対馬海峡の安全が保障された事で出港が許可された。
遅れていた部隊の軍需品を無事に積み込む手続きも手間取っていたが無事に終わった。
船に貨車ごと積み込むだけマシだった。
一般の船なら貨車から荷物を下ろして船倉へ積み込むという作業がある。
だが関釜連絡航路に投入されている鉄道連絡船は貨車をそのまま積み込んでくれるので手間が省ける。
海援隊が大隈重信の言葉を覆してまで日本と半島の鉄道を標準軌で建設を進めた結果、貨物の載せ替えずにすんなりと車両ごと走らせることが出来るからだった。
もっとも人員は船の客室容量の関係と港湾能力の限界により下関か先年完成したばかりの関門海峡トンネルで門司まで移動し、そこから客船に乗り込むことになっている。
日清戦争の時は本土の鉄道が宇品までしか通っておらず、そこから出港したが鉄道の発達で九州の港からも出港できるようになった。
ただ、貨物に関しては貨物が自ら動くことは出来ないので、下関と釜山を結ぶ鉄道連絡船で優先輸送されている。
また半島での車両、特に蒸気機関車が足りないため歩兵はできるだけ前線に近い仁川か北朝鮮の鎮南浦で下船させ鉄道での移動距離を短くし効率性を上げようというのが海援隊の助言を受けた参謀本部の方針だった。
なまじ歩けるという能力があるため兵隊は歩いて乗船下船が出来るので長い船旅を強いられているのだ。
「船酔いで大変だろうな」
柴崎自身も酔いやすい体質だ。
台湾守備隊へ入隊するとき船酔いで苦労した覚えがある。
1874年の台湾出兵後、化外の地――海援隊が外国に清が領土外と宣言したと説明し領有を宣言した台湾が発展し、さすがに武装しているとはいえ、一会社が広大な島を領有しているのは外聞が悪かった。
そのため日清戦争後、防衛のために日本陸軍が進出し現地に台湾守備隊――のちの台湾軍を創設し、海援隊の部隊と協同で防衛することになった。
最初の募集を見た柴崎は内地との部隊と比べて過酷な熱帯での生活と遠隔地のため、役得が良いので選んだのだが、船旅に苦労した。
現地の兵隊生活は南国の暑さには参ったが、役得と匪賊討伐の報奨金で良い思いが出来て良かった。
しかし、日清戦争後の陸軍の拡張が幸せな日々を奪った。
三国干渉に怒った日本は臥薪嘗胆を合い言葉に、対欧米列強をめざし軍備増強に入った。
陸軍も拡張され、人員が増強された。
しかし兵隊の頭数が増えるだけでは何ら意味がなく、中核となる下士官や下級士官の育成が求められた。
特に優秀で実戦経験のある者が求められ、匪賊討伐に参加して実戦経験――日清戦争以降の戦いは特に貴重であり、実戦に参加した柴崎はすぐに昇進して陸軍士官学校へ入学が許され入学した。
しかし短期間での昇進は柴崎の心に大きく負担となった上に、軍人に向かないことも理解させた。
そのため柴崎は拡大を続けていた参謀本部測量部が人材不足から募集をかけていた測量官の仕事に飛びつき転官した。
日本各地を回り、測量を送る日々、特に日本アルプス周辺の測量は柴崎にとって天職だった。
剱岳を含む測量を終えると柴崎は、アラスカへの測量も命じられ成功させている。
海援隊が1893年にアメリカから殆ど開拓が進んでいなかったアラスカを購入し、開発を始めた。海援隊の領地だったが日本の領土でもあったため、統治の為、測量する必要が出てきて北アルプス経験者の柴崎が赴き、測量を行った。
しかし、日清戦争後の陸軍の拡大は止まるところを知らず、山岳地帯を行動する新設部隊山岳部隊が創設されることになる。
柴崎は台湾時代の匪賊討伐と文官へ転官した測量官時代の北アルプスとアラスカでの測量に伴う登山経験から中核要員として必要と言われ再び武官へ転官し山岳部隊へ行くよう命令された。
命令とあらば仕方なく柴崎は自分の経験を元に提言を行い、提案は何度も採用された。
故に上の柴崎への評価は良好だった。
そして新設部隊故に足りない経験豊富な将校として昇進して行き、連隊長を任じられた。
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