日本の山岳活動事情

 元々、日本の山を愛したサトウおよびウェストンの提案で日本山岳会が結成されその会員だった者が多く、趣味とはいえ日本で徐々に広がりつつある山岳愛好家達だ。

 彼らは海援隊の士官として採用されてから移籍したか、一年志願兵――半年ほど兵隊として勤務した後軍曹へ、その後の試験で合格すれば士官、不合格でも曹長になれる制度で任官した人間だ。

 部隊勤務より山の方が長いため、山登りの経験が多い柴崎を尊敬するのはある意味当然だった。

 何より山仲間、山に登った人間はある種の連帯感、通じるものがある。

 同じ山を登ったという経験は互いに登山時の苦労や達成感を思い起こし親近感を抱かせる。

 たとえ階級の差があっても強い繋がりとなり柴崎と彼らを結びつける。

 特に山岳会出身の士官にこの傾向は多い。

 柴崎は測量官時代日本アルプスを担当していたこともあり、時に彼らと初登頂を競うことさえあった。

 山岳会の活動に刺激された測量部は台湾とアラスカの本格的統治が始まり、測量が要請され作業量が膨大になったこともあり測量官を増やし、地図作成計画を前倒しにした。

 予定より数年早く、日本の地図が完成したのは、そのためだ。

 柴崎もその過程で陸軍の士官から測量官へ転官し、主に日本アルプスを担当。いくつもの山に登った。特に前人未踏とされた剱岳への登頂に成功したことは、当時話題になった。

 もっともこれは、先に部下と案内人が登った後、柴崎が上ったので初では無い。

 部下の手柄を横取りしたくないし、そもそも測量のために登ったので大っぴらには話さない。むしろ登攀路が過酷で三等三角点は立てられず簡易な四等三角点になってしまい測量部の正式な記録に残せない事が残念であり、思い出したくない。

 しかも標識を立てる際、千年前の修験者が置いていったであろう錫杖や、たき火の跡を発見したため、少しバツの悪いこととなった。

 それでも近代史上初めての登頂ということで山岳会から柴崎は一目置かれていた。

 彼らと会う度に剱岳の話をせがまれるが、バツが悪くとも経験を伝えるべく話している。その態度が彼らには謙遜と映り、より尊敬を得ていた。

 だが彼ら山岳会出身士官たちの直接の上官である中隊長や大隊長は柴崎の態度を気に入っていない。

 柴崎が幕僚から孤立気味である理由はそんなところだった。

 はじめから士官学校へ入学したエリートである正規士官からして見れば、元々下士官出の特務士官で一度は文官に移ったのに、新設部隊、それも海援隊が関わっている部隊の連隊長に抜擢されている。

 そこは柴崎も迷惑に感じている。

 海援隊が購入したアラスカの測量に赴いた時、海援隊から目を付けられ多大な援助と共に海援隊の仕事をして、半ば海援隊に引き入れたのは少し強引に思う。

 どういう手を使ったのかアラスカにいる山に慣れている人間を山岳戦部隊を編成中の海援隊が手当たり次第に引っ張ってきて海援隊の中で必要と思われる階級、それも士官の位を与えた。

 勝手に部下を海援隊の一員にされた陸軍だったが海援隊への対抗上、陸軍内で同じ階級を与えなければならず――有能な人間を適切に配置するのが組織として必要であり優秀かどうかで判断されるため、年功序列などは半ば無視され、任命された。

 贔屓によって勝手に選抜されないよう年限を設けて順次昇進させる陸軍の方針を、未知の分野の新設部隊に必要とはいえ、半ば無視された陸軍人事局に柴崎はひどく恨まれている。

 必要な人材を各方面から引き抜いて入れる事は創設発展期には重要で第三軍司令官となる乃木希典はいきなり少佐に任命されたし、首相の桂太郎はドイツ留学後大尉に任官、児玉源太郎は下士官だったが四年で少佐にまで昇進している。

 人材の流入も盛んで情報将校として活躍する福島安正は元は外交官で文官だったが士官登用試験に合格して陸軍に入りシベリア単独横断などを行い日本に貴重な情報をもたらしている。

 だが、あまりにも自由すぎて不要な人材や縁故による登用も発生、何より人事の基準が確立できず組織として確立しない――個人の技能に頼り切っており、当人がいなくなれば瓦解するような状況だった。

 だから陸軍生粋の人間が陸軍内で育ち、任務を遂行できる人事システム――士官学校卒業後様々なポストを経て昇進して中枢を担う人材を作り出す制度が出来はじめ、士官学校の卒業生が主要ポストに就任し始めた時、日露戦争が始まった。

 彼らが実戦で活躍するか否か、日本陸軍の人事制度の真価が問われる時期だった。

 なのに陸軍創設後二十年を掛けて作った人事制度を壊すような存在が現れた。

 それが新たに編成された山岳部隊であり、そこで技能があるという理由で採用され制度から外れた階級を与えられた基幹要員達だ。

 それが柴崎が中佐になり陸軍中央や士官学校卒業者に嫉妬されている理由だった。

 しかし、山岳地帯における軍事行動はもとより冬山の行軍でさえ経験が少ないのが日本陸軍の状況だ。

 日清戦争で冬季の作戦行動を経験し、凍傷により多くの将兵と物資輸送の軍夫――履き慣れない軍靴を嫌がり草履で作業をしていた事も一因となって戦線離脱し戦力が低下し、大きく影響が出た。

 戦後になって落ち着きようやく日本軍は冬季軍事行動の研究が始まった。

 しかし、人材不足のため殆ど進展せず、大隊規模の山岳部隊を北日本各地に設立する程度しか結果を出せなかった。

 結果、一昨年1903年に青森第五連隊において行われた冬季活動の研究及び演習として八甲田山での雪中行軍が行われ、参加者二〇〇名中半数が凍死する事件が発生した。



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