第二部 半島確保

回想 樺太戦争

「とはいっても海援隊が国家相手に戦うのは厳しいんだよね」


 国際調達に欧米へ向かう是清を見送った後、鯉之助は艦尾にある司令私室に付属する艦尾回廊に出て海風を浴びながら呟いた。

 主砲塔が並ぶ上甲板の一つ下の甲板に作られた長官室は艦尾にあるため船体が細く長官室も狭い。

 そのため、少しでも開放感を与えるために艦外に張り出しを作って歩けるようにした。

 といっても人一人分の幅しか無く、波が荒いと濡れ鼠になる。

 だが、外の空気を吸うことが出来るし解放感があるので鯉之助はそこが好きだった。

 そして円島仮泊地に集結した艦隊、日本海軍と海援隊の艦船を見ながら考える。

 海援隊が大きくなるにつれて摩擦も大きくなる。武力を持った商会など要らぬ猜疑心を相手方に生んでしまう。

 そこで龍馬は自分の名前を冠した海龍商会を表看板とし海援隊をその傘下の武装警備会社にした。

 しかし実際は警備の他にも傭兵や政府が表立って活動できない地域での特殊工作を行う仕事も請け負っている。

 実際、明治新政府と海援隊そして海龍商会は全くの別組織であり、お隣さんの関係である。

 時には味方だが時には敵に回ることもある。

 技術導入で諍いが起きることなども多い。

 樺太での戦いでもロシア政府との戦闘を避けたい日本政府と樺太を本拠地とする海援隊および海龍商会の間で戦争寸前の状態に陥ったこともある。

 それでも日本の為、あるいは政府と海援隊の上層部が共有する体験、あの幕末と維新を共に駆け抜けたという記憶が決定的な諍いを防いでいた。

 何より南下政策を武力を推し進めるロシアという超大国を前に一致団結していた。


「まあそれは嬉しいことだけど」


 個人的にもロシアを敵とみている鯉之助にとってこれは重要だった。

 鯉之助が樺太に居た頃、第二次樺太戦争が勃発し、ロシアと戦争状態になった。

 樺太は江戸時代からアイヌの他日本人とロシア人が入り混んでいた。

 日露和親条約で国境が定められず、樺太仮規則で往来自由が確認されていたがロシアはそれを最大限に拡大解釈し、要所要所に軍隊を送り込み、あちこちの開拓地を不法占拠してきた。

 日本側の施設に放火するのみならず、日本人の消火活動をロシア兵が銃を突きつけて邪魔したことさえあった。

 そうした不穏当な土地であるため、元武士であり一定の自衛力も期待できる旧東北諸藩が入植させたという理由もあった。

 戊辰戦争直後、箱館仲裁の後、樺太で紛争が起き第一次樺太戦争へ発展、勃発したのもそのためであり、旧榎本軍三〇〇〇名が大急ぎで派遣された理由もそのためだ。

 樺太に上陸した榎本軍は駐屯していたシベリア歩兵第四大隊四〇〇を蹴散らした後、援軍二〇〇〇を破り仮規則の厳守をロシアに約束させた。

 ロシアの南下を警戒していたイギリスの仲介という名の軍事的威圧もありロシアは一時引き下がった。

 しかし、ロシアは領土拡大を諦めたわけでは無かった。

 シベリアコサックを増強し、樺太の村人が熊に襲われたのを日本人の襲撃だと偽って宣伝し開戦の口実を得ると四〇〇〇の軍勢で攻め入ってきた。

 日本側も樺太開拓者を中心に各地で戦闘を行い、イギリス、フランスの助けを受けながらもロシアを撃退することに成功。

 明治十年――西暦一八七七年にロシアが宣戦布告して起こした露土戦争においてプレヴェン攻囲戦が予想外の長期戦に陥り極東進出への余力を失ったロシアは日本と国境画定を提言。榎本武揚を団長とする交渉団と条約を締結。賠償として千島列島と樺太の領有権を認めさせ、大陸に追い返した。

 代償に海援隊もロシアの極東への航路へ船を出すことになったが、些細な事だった。

 しかし、一連の事件でもロシアは南下政策を諦めて居らず虎視眈々と極東進出の機会を伺っていた。

 そのため樺太におけるロシア人保護を名目にロシアが樺太へ上陸し明治一五年に第二次樺太戦争が勃発。

 各地で激戦が繰り広げられた。

 明治政府は自らと並ぶ存在となった海援隊を心良く思わず、この戦争を海援隊独自の行動として中立を宣言し、海援隊は表向きには援助を受けられない状態になった。

 鯉之助も少年兵として、ついで指揮官として参戦し、ロシア軍を各地で撃破していった。

 それでも大国ロシアを相手に戦うのは困難とされた。

 そこを救ったのが龍馬だった。

 極東への野心を露わにしたロシアに対して英仏に脅威を説き連合してロシアに対抗するように促した。

 そのやり口は悪辣で、フランスにロシアの戦費を貸させるとともに英国が極東航路上の各港でロシア軍を運ぶ商船に法外な値段をふっかけて巻き上げた。

 ロシア軍はなんとか極東に到着したが、ここで最後の罠が発動した。

 日本の優位は船舶用のドックを多数保有していることだった。

 欧米に比べれば貧相だが、場所と状況が日本を優位にした。

 極東において日本以外の船舶用ドックは上海にしかなく、それも小さいものだった。

 だが、開国前より技術習得に務めた日本には横須賀と長崎を中心に多数のドックが存在していた。

 そのため、欧米の船舶は日本のドックで船舶の修理、整備を受けるしかない状況となった。

 明治政府はロシアの軍艦を交戦団体として修理を拒絶。国際法に則り速やかな出港を命じた。

 仕方なくロシアの船舶はウラジオストックへ向かうが、日本に潜ませていた海援隊のスパイ及びシンパが海援隊に通報、整備不良でのろのろと進むロシア船舶を襲撃し大半を撃沈もしくは拿捕した。

 これによって第二次樺太戦争は海援隊の勝利で終わり、樺太と千島の帰属が確定した。

 日本も以上の行動からロシアの野心を理解し、警戒し富国強兵に進んだ。

 そして明治三七年、朝鮮半島へのロシア進出を防ぐべく大日本帝国はロシアに対して宣戦を布告した。

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