居留民避難船 福州号

「はあ、なんとか収容できた」


 山東半島にある港町芝罘の日本領事、水野幸吉は日本国旗を掲げた英国船福州号のブリッジにいた。

 開戦が決定し、戦場となるであろう極東ロシアと満州の日本人居留民に二月五日から六日に掛けて退去命令が日本外務省から下った。

 対象地域周辺の在外公館職員は、避難作業に追われた。

 水野は旅順と大連方面の居留民六〇〇名の収容を命令され、彼らに大連へ集合命令を出した。

 そして英国船福州号を雇い大連へ入港、全員乗船させて芝罘へ避難させる予定だった。

 だが、予想以上に居留民が多く、集合に手間取り、大連を出航したのは九日の朝だった。

 前夜、旅順方面で砲声が聞こえたことから旅順を迂回する航路をとり、芝罘へ向かっていた。


「無事にたどり着けると良いのだが」


 砲声が聞こえたということは、既に戦争が始まっているという事であり、この辺りも危険だ。

 出航する時、大連港の係官から旅順方面で日本軍による軍港への奇襲攻撃が行われている事を知しらされた。

 出航を取りやめ様子を見ようかと思った。

 だが、戦局が悪化すれば、大連に留め置かれる可能性が高く、大連も戦場になる可能性があった。

 それに今はまだ情報が入ってくるが、いずれ本格的な戦闘が始まり長期化すれば情報が錯綜し途絶する。

 開戦したばかりで不完全ながらも情報が入ってくる内に、出港した方が安全だと水野は判断し出港させた。


「他も無事に作業が進んでいると良いのだが」


 居留民の避難は遼東半島の付け根の街営口、ロシアの沿海州の港ウラジオストックでも水野の同僚、当該地域の在外公館によって行われている。

 営口は遼陽、奉天方面は鉄道が繋がっており、天津方面へ列車で避難する事が可能だ。人数も三〇〇人くらいで滞りなく進めることが出来るだろう。

 だが沿海州は日本と海路が繋がっていることもあり内陸のハバロフスクを含め、五千人の日本人が居留している、と言われている。

 彼らを無事に日本に帰国させる事も現地の日本領事の役目だ。

 同じ日本の外交官として、彼らが無事に任務を果たすことを水野は願ってやまなかった。

 いや、自分も同じか、それ以上に困難な任務を行っており、無事に芝罘へ入港しない限り、成功したとは言えない、と水野は思った。

 現に昨夜砲声がした海域の近くを航行するのだから、何時戦闘に巻き込まれてもおかしくない。

 水野は機を引き締め直した。

 その時、見張りが叫び、ブリッジが緊張に包まれる。


「何事ですか」

「接近してくる艦隊がいる」


 船長の言葉に水野も緊張する。

 出撃したロシア艦隊だろうか。

 福州号は非武装の避難船であり、ロシア側にも通達済み。

 停戦を命令されても臨検を受けるだけで済むはずだ。

 だが、既に戦時下である。

 血気盛んな現場が、国際法を無視、あるいは忘れて抑留してくる可能性もある。

 いや、最悪の場合、問答無用の無警告攻撃を行ってきて撃沈されてしまう。

 居留民達も艦隊に気がついて動揺している。

 パニックになり、混乱したら収拾が付かない。


「船長、此方が日本の居留民避難船である事を相手に連絡してもらえないか」

「既にやらせています」


 相手に自分が何者か知らせることが何時の場合も大切だ。

 船長も理解しており通信士に命じて相手に信号を送る。


「皆さん落ち着いてください! 我々は国際法で守られています!」


 その間に水野は居留民に、落ち着くように伝えた。

 事実だが気休めにしかならないことは知っているが、動揺を抑えるためにも大丈夫だと居留民に必死に言い聞かせる。 

 その時、相手が発火信号を送りはじめ見張りが大声で報告した。


「相手艦より信号! ワレ カイエンタイ ギユウカンタイ キカン スカイ」

「味方だ! 海援隊だ!」


 味方である海援隊の接近に水野は大げさに騒いで喜んだ。

 接近する艦隊が味方である事を居留民に知らせるためであり、効果はあり居留民の動揺は収まった。

 だが、艦隊を一目見ようと多くの居留民が甲板に集まり、一寸した興奮状態になって鈴なりになったのは誤算だった。

 だが、パニックになられるよりよかった。


「ニンム オツカレサマ ブジノコウカイヲイノル」


 返事が終わっても海援隊の戦艦は旅順に向かうべく近づいてきた。

 甲板上で鈴なりになっている居留民達は「万歳」を叫んだ。

 だが、その声は徐々に小さくなっていった。

 接近してくる戦艦の大きさに圧倒されたからだ。


「なんて大きさだ」


 水野はその一言を言うだけで精一杯だった。

 帝国海軍最新鋭の三笠より二回りほど全長が長い。

 巨大な船体には前後に二つずつ主砲塔を搭載し煙突の前後のマストにはそれぞれ二本の脚が斜めに取り付けてあり今までの艦とはまるで雰囲気が違った。

 見たことのない艦の感じたことのない圧倒的な攻撃力を秘めた威圧感の前に水野は黙るしかなかった。

 それが二隻もいる。


「しかし頼もしい」


 大国ロシアを相手に戦うのは絶望的だと水野は考えていた。

 だが、日本が、海援隊所属とはいえあれほどの巨大戦艦を持っているのであれば、もしかして勝てるのでは、と思えてしまう。


「勝ってくださいよ!」


 すれ違う間際、水野は大声で叫んだ。

 日露の状況は外交の最前線で戦っていた水野にはよく分かっている。

 昨今の緊張状態も開戦が不可避である事も、国力の劣る日本に勝ち目が少ないことも。

 たった二隻の戦艦で戦争に勝てるとは思えない。

 しかし、旅順艦隊ならあるいは、緒戦で勝利を収めれば案外早く終わるのではないか。

 旅順艦隊に大損害を受けたロシアが降伏までは行かなくても早期講和の席に着くかもしれない。

 それだけが日本の希望であり、現実的な未来だった。


「万歳!」


 最後に水野は居留民と一緒に叫んだ。

 希望と絶望が混ざった複雑な思いを、不安を吹き飛ばすように叫んだ。

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