パンツと私

あきのななぐさ

第1話 

 とてもどうでもいい話ではあるのですが……。

 私は今、パンツをはいていません。








 いえ、特別そういう事に目覚めたわけではなく、今は必要があっての事です。しかも、ムスコまで他人の手にゆだねています。



 いえ、いたってまじめな話です。



 ですが、このパンツをはいていないという状況は、嫌でもあの時の事を思い出してしまいます。


 そう、あの忌まわしい出来事を……。






 はい。もちろん私はパンツをはかずに家を出る主義ではありませんし、家の中でもしっかりとパンツをはいています。どうでもいい事かもしれませんが、それは確かな事ですし、重要な事です。


 だから、あえて言います。


 私はちゃんとパンツをはきます。ええ、ちゃんとパンツをはく人間であると。


 ですが、不運というものは突然に、しかも何の前触れもなく訪れるものです。そして、同時に不幸というものまで手招きしてしまうのです。


 そう、私はその日の最後の重要な商談に向かう途中、急な腹痛に襲われました。


 そこから駅まではまだ遠く、近くに商業施設がない住宅地。やむなく私は、近くに見つけた公園のトイレに駆け込みました。『ああ、よかった……』と、確かにその時の私はそう思いました。


 はい、そこまでは良かったのです。幸運でしたよ。何とか危機を回避できたのですから。


 でも、かみは私を見捨てました。


 いえ、自ら手放したというべきでしょうか? いつものカバンになら入っていたはずですから……。


 そう、私は紙を見つけることができなかったのです……。




――そのあとはご想像にお任せします。私にはそれしか手がなかったのです。




 ただ、あの時電車に乗っていても、誰一人私がパンツをはいていない事に気づいていなかった事でしょう。もっとも、私も今まで『他の人がパンツをはいているかどうか』という事を、特に気にしたことが無いのですから。それは当たり前の事だと思います。


 でも、頭ではそう理解していても、気持ちは全く違うものだと思い知りました。


 そう、その時から私は、いつもの私ではなかったと思います。


 これでもそれなりに知識がある方だと自負しています。ですが、その時の私の頭の中はパンツ一色。本来あるべきところにパンツはなく、頭の中がパンツで埋もれてしまっていました。


 しかも、『パンツとは何なのか』という事まで、真剣に考えてしまっていたのですから……。


 古くはシュメール文明においてその存在が描かれているパンツ。現代にあっては性的な意味合いの強いものに変化しているそれは、あの時の私の最終手段となりました。


 ただ、最終手段を脱ぎ捨てた後の自分がそれまでの自分とは違うという事。その事を、私はわかっていませんでした。


 ただ、今では強く認識しております。あの時のその答えを。


 あのたった一枚の布切れによって、私という存在が守られていたと言っても過言ではないという事を。


 当然、商談は失敗です。何日も苦労して準備したものが一瞬で泡と消える。その喪失感は計り知れないものでした。


 気が付くと、私は公園でビールを飲んでいました。


 元々、アルコールに弱い私です。ですので、めったに自分からは飲みません。ですが、その時は違ったのです。失意のうちに何本か空にしていた私は、ふらつく足で駅に向かい、そのままトイレに行き、用を足しました。


 そして、悲劇はおきました。


 パンツという最終防衛手段を失っていた私は、特に気にもせずチャックを勢いよく締めてしまいました。


 はい、どうなったかはもう明らかです。

 しかも、結構血が出ていたようです。


 ダンゴムシのようにうずくまる私を見つけ、周囲は騒然となっていきます。そのうち救急車が到着し、ふと目があった男性の憐みの視線で見送られた私は、病院で夜を過ごすことになり、今に至るというわけです。


「はい、大丈夫ですよ。危ないから、酔っててもパンツはちゃんと履くようにしてください」

「はい……」


 反論する気力もないまま診察は終了し、無事に退院という事になりましたが、私の頭は今でもぐるぐる回り続けています。


 もし、カバンを変えた時にポケットティッシュを移していれば、パンツを失うことはなかった。そうすれば、商談もうまくいったことでしょう。


 いえ、それは仮定の事です。今さら何を言っても始まりません。

 ただ、確かに言えること。


 男にとってのパンツは絶対防衛線だという事。


 そして――。


 もし、あの時パンツがあれば、『チャック』という名で、陰で看護師さん達から呼ばれていないであろうことも――。

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