魚の娘、水の音 裏 弐
男は茫然と女を見つめる。
濡れた床に倒れたためだろう、見事な着物が生臭い水を吸い、重たく身体にまとわりついている。裾がはだけるのも構わず、子供のように足をゆらゆらさせている。足首の白さが男の目を射た。
「当代とはもうお会いになりましたか?……なるほど、まだ会ってはいないのですね。お顔を見ればわかります。それはご賢明なことでした。当代もまだ身についてはいないでしょうから、見苦しい点もありましたでしょう。せめてもう一月ほどお待ちいただいた方が。今は蛹から抜け出たばかりのようなもので、あんまり見ごたえはありません」
女の声は柔らかく、我が子を見つめる母親のように穏やかな笑みを浮かべていた。
男は茫然とその姿を見つめ、女の言葉が止まってようやく、はっとしたように周囲を見渡した。
――水桶の蓋が開いている。
広い地下に十数個も置かれた水桶が、ひとつ残らず開け放たれている。いつのまにか這い出した人魚は床に伏せ、濡れた白い肌と魚の尾が微かな明かりに輝いている。
人魚たちは黒々とした瞳を見開き、女をうっとりと見つめている。
一匹が男を振り返り、長く生え揃った歯を見せて笑った。
「――あんた、蓋を開けたのか? こいつらはこう見えて、」
人食いだぞ、という言葉を飲み込む。
濡れた地面に蛇のようにのたうつ、この生き物らは人語を解する。
人の味を覚えたものだけを隔離しておいた。気を付けていても稀に事故は起こる。生きたまま売りには出せないが、肝は薬に、鱗は宝飾品に、髪は水難除けの呪いに用いる。さほど力の強い生き物ではない。しかし鋭い爪と牙があるため、一匹につき二人がかりで扱うのが鉄則だ。
――この数が、一斉に牙を剥けば。
「そうですね、この娘たちにとって人は食べ物、人が魚を食べるのと同じ。私たちのどちらが美味しそうなのかしら。あなたは食べでがありそうだけど、私の方が柔らかいでしょうね」
女は優しく手を差し伸べ、近くにいた人魚の頭を撫でた。猫にするように首をくすぐる。人魚はきいと小鳥のように鳴いた。人魚が発するそのような声を、男は初めて耳にした。
男は女の名前を呼んだ。
女はゆるゆると首を振った。
「いいえ、もうそれは私ではありません。その名前はもう次の娘のもの。不便ですからどうにかしなければなりませんね」
代替わりで先代は消えるんじゃあないのか、なぜまだここにいる。男はそう問い詰めようと思ったが、目の前の女をどう呼べばよいかわからず、口を開きかけるが何も言えない。
女は男の胸の内が聞こえていたかのように、微笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、稀にそういう娘もいます。でも決して多くはありません。元の自分を取り戻して実家に帰る者もいますし、新しい名前にめぐり合い愉快に生きていく者もいますよ。なにしろお役目のあいだにはいろいろな世界を見ますから、先々のことを考えるのに向いています」
女の語り口はなめらかで、相変わらず美しい顔と姿をしていたが、近寄りがたさは拭い去ったように消えていた。生き生きとした瞳が明るく輝いていた。
「そんなにおびえた顔をしなくたっていいじゃありませんか。もうちょっと傍にいらっしゃい。飲み物に毒を入れたのも忘れてあげます。――お礼を言うべきかもしれませんね。あなたが何もしなければ、海の泡になってこの世から消えていたかもしれません。代替わりの日は自分では決められない。季節が移りゆくように、通り過ぎてから気づくもの」
女は首をかしげ、果実のような唇を吊り上げて笑った。
「私が次はなにになるか教えてあげましょうか」
狐の老婆を捉えた夕暮れの日、人魚を見たいとねだる小さな白い手、あでやかな絹にくるまれて帯で縛られた痩せっぽちの身体。光を吸い込む真っ黒な瞳。鈴を振るような笑い声。美しさと幼さと薄気味の悪さ。
異形の人魚が這いずって、女の着物の裾にうやうやしく頬ずりする。長い髪の先におずおずと触れる。最も凶暴な一匹が夢見るような目をして女を見上げると、女は無造作に人魚の頭を撫でた。
生臭い水辺の匂い、生き物の死骸と腐った水草の匂いが強くなる。
「人魚の女王様になるんです」
女は鷹揚に男を指差した。
人魚たちは一斉に首を伸ばし、ぐるり、と男を振り向いた。
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