魚の娘、水の音 裏


 半ば意識のない若い女を、男は路地裏に投げ捨てた。


 鼻歌を歌いながら機嫌よく屋敷に戻る。身体に厚みのある巨漢に似合わず、足取りは蝶が舞うように軽い。踊りださんばかりの上機嫌でひらひらと屋敷の鍵を開け、豪奢な赤絨毯を踏む。

 大きな獲物をついに捕らえた。

 長年の念願がついに叶った。

 初めて垣間見た十年も前から、彼はあの娘を欲しかった。白いきれいな顔に真っ黒な瞳。痩せっぽちの身体は見た目通りか弱く、よく言えば優雅に、悪く言えば緩慢な動きをする。

 

 十年前の光景を、彼は今もよく覚えている。

 

 老婆に化けた人食い狐は、あの目でひたと見つめられ、ひとたまりもなく平伏した。音が聞こえそうなほど震えるその背をやさしく撫でながら、彼女は老婆の大きな耳に口を寄せ、何事かをささやきかけた。

 老婆が、今や狐と人の継ぎはぎになった毛深い顔を上げた。

 娘はにっこりと微笑んだ。

 まだ若かった彼は息を吸うことすら忘れた。いつまでも見ていたいと思うような、いつまでも見ていられたいと願うような、今まで見たこともない美しさだった。

 老婆はふらふらと立ち上がり、娘に促されるままに、待ち受ける猟師たちに連れられていった。夕暮れ時の柔らかな光に照り映えた、その見事な毛皮を買い取ったのは男の父親だ。

 何の抵抗もしなかった、さすがは雛子の嬢さまだ――と機嫌よく言うのを夕食の席で聞いた。


 文明が発達し、人々に知恵がつき、魑魅魍魎が駆逐されつつある今の時勢、安定した怪異はひどく稀なものだ。

 山村に暮らす若い娘に竜が懐くことはある。血筋に雪女が混じる家系を知っている。しかし娘が年老いて死ねば、雪女と猟師が成した子らが数代も経れば、大抵は全てが無かったことになる。村が獣害に見舞われるたびに娘を守った竜は天へ飛び去って一筋の雷となり、雪女の筋は雪国で血を繋いではいるものの祈り一つで雪崩を起こす力は既に無い。

 魔法の杖を振り、呪文を唱えても、母と同じ魔法を子が使うのは難しい。

人にとって値打ちのあるものほどその傾向が強い。数少ない例外の一つがあの娘だ。

代替わりの筋書きと観測者の存在が、安定と再現性をもたらした。使い捨ての贄を用意し続けるのは一苦労だというが、見返りは大きい。

 磨き抜かれた革靴を鳴らし、地下室の分厚い扉を開ける。

 

「こんにちは、お兄さん」


 楽しそうな、軽やかな声だった。

 ついさっき毒を飲ませた女――目の覚めるような美少女が、水槽の一つにもたれかかってあまやかな笑みを浮かべていた。

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