世界の終わりに雨が降る

第1話

『明後日の夜、隕石が地球に直撃するだろうとの予測が出されました。地球を割るほどの威力です。どうか国民の皆さまには、慌てず、落ち着いて行動して頂きますよう―――』

 昨日、首相だか、大臣だか、政府の偉い人が突然そんな発表をした。ソファに寝転がって、数ヶ月前に買った小説を読んでいた僕はその言葉に顔を上げる。なんとなく体を起こして、どうしよう、と独り言を呟いた。あまりに唐突なそのニュースにはまるで現実味が無くて、もしかしたら夢かもしれないとさえ思う。けれど手に乗る本の重みは確かに実体があるし、頬をつねってもただ痛いだけ。机に置いたスマートフォンは繰り返し震えて連絡が来ていることを知らせてくる。要するに、ここは夢ではないということなのだろう。慌てず、落ち着いて、大人は一体世界の終わりに何をしろって言うんだ。読み始めたばかりの小説は存外面白くて、最後まで読みたかったのに、なんて自分のことながらあんなニュースを聞いた直後に考えることじゃない。それでも、世界の終わりに実感なんて湧くはずもないだろう。今の僕にとって大切なのは本を読むことで、ただ二日間のうちに読み終えられそうになかった。だから僕は、まだ何の事件も起こっていない本をぱたりと閉じて、一人の少女に電話をかけた。親戚や数少ない友人たちからの連絡を全て無視して電話をかけると、数コールの後にいつもと変わらない声が聞こえた。

『もしもし』

「明日世界が終わるんだって。ニュース見てる?」

 今つける、と言って、すぐに電話越しに薄くニュースの音声が聞こえてくる。目の前で流れているのと同じものだ。

『……嘘みたいなニュースだな』

「残念ながらここは夢じゃないみたいだけど」

『それで?世界が終わるってときに、君はどうして私に連絡をくれたんだ?』

 この緊急事態にも関わらずいつもと変わらない声音が心地よい。少し特殊な話し方をして、周りよりも落ち着いて、言葉を大切に扱う彼女との会話は不思議な気持ちにさせられる。

「明日。君の貴重な一日を、僕にくれないかな」

『いいよ。高校で会おう』

「ありがとう。それじゃあ、また明日」

『また明日』

 彼女はきっと断らないと思っていたけれど、それにしても迷いがない。通話の切れたスマートフォンを眺めて、それから僕は立ち上がった。

 この物語は、嘘みたいな大人の言葉から始まる、世界最後の前日の話だ。世界最後の一日よりも、きっと語られるべき優しい物語だ。

 それは、高校の屋上で始まる。




 半開きになった屋上へと繋がる扉を通ってぐるりと裏側へ回り込む。幸い空は晴れており、憎たらしいぐらいの青空と白く大きな入道雲が浮かんでいた。絵に描いたような夏の空だ。視線を落とすと屋上で寝そべる少女の姿が見えて、僕はそっと彼女の名を呼んだ。ミケ。その名前を僕以外が呼ぶことは無いから、彼女は閉じていた目を開かないまま小さく笑う。

「おはよう、クジラ。本当に来るとは思わなかったよ」

「君じゃあるまいし、呼び出しておいて来ないほど非情な人間じゃないよ。僕は」

 クジラもミケも勿論本名ではない。彼女と出会った頃に決めた、所謂あだ名みたいなものだ。猫の彼女と鯨の僕。彼女の隣で同じように寝転んで、僕は空を見上げた。空はこんなにも眩しくて全力で夏を主張しているのに、僕らが生きる世界に再び夏が来ることはないらしい。彼女の隣なら無言でも苦しくはないけれど、今日が最後だと思うとそれは勿体ないような気がして僕は口を開いた。

「君と初めて会った日も、こんな青空だった」

「高一の頃のことか?よく覚えていたな」

「きみはどうして生きているんだ、だっけ。初対面の人に言うことじゃないでしょう。君のインパクトが強くて忘れられないよ」

 高校に入って初めての夏休みのときだった。彼女は屋上に忍び込むために来ていて、僕は夏期講習を受けるために学校に来ていた。廊下を歩いているときに偶然屋上への扉が開いているのが見えてしまって、なんとなく足を踏み入れて、十五年間生きてきて見たことも無い一本の直線のような瞳に迎えられたのがきっと全ての始まりだ。初めは関わらないようにしようと思っていたのに、気が付けば他の誰よりも言葉を交わす相手になっていた。小学生の自己紹介みたいな他愛もない内容から、哲学的で抽象的な問題まで。たった一年間で随分と沢山の話をした気がする。

「君が私のことをミケ、と言ったから気に入ったんだよ」

「僕はクジラなんて言われると思わなかったけどね」

 本名が嫌いだ言った彼女に、ならあだ名をつけようと提案したのは僕だ。二人で会話するときにだけ使われる秘密のコード。彼女の自由気ままなところが野良猫みたいだったから、僕は彼女をミケと呼んだ。

「五十二ヘルツの鯨は知っているだろう?あれだよ。君は周りと会話をしない存在みたいに見えた」

「その言い方は酷いんじゃない?」

 人を拒んでいたつもりはないけれど。でも、そのおかげで彼女と会話が出来るようになったのならそれはそれで構わないなと思う。一人気ままに歩く猫と孤独に泳ぐ鯨の周波数が上手く噛み合った。きっと、奇跡みたいな確率で。

「世界最後の前の日に、君は何をするの?」

 有難い奇跡を堪能しようと、僕はそう問いかける。ずっと閉じていた瞼を開いて、白い雲の眩しさに目を細めながら彼女は僕のほうに視線を向けた。

「実際、本当に世界が滅ぶかどうかなんて分からないだろう。人間は全能じゃない。もしかしたら明後日目が覚めるのかもしれない」

「でも僕らはもうすぐ死ぬと思ってる。そうでないと、こんな話しない」

「そうか?私たちはいつもこんな話ばかりしていたよ。正義とは何か。物語とは何か。正解も間違いもない問いについて話し続けて、それは全部、世界の終わりについて話すことときっと同義だ」

 そう言いながらこちらを見て笑う瞳は透き通っていて、ただ純粋に綺麗だなと思う。その澄んだ瞳には、この汚れた世界はどんな風に映っているのだろうか。二人で向かい合って、時には隣に並んで終わりのない問いについて何時間も語ってきたのに、彼女の背中さえ見えないような気がしてくることがあった。思い返してみれば、彼女との話はいつだって捉えどころのないものばかりだ。正義とか、善悪とか、命とか、野良猫の居場所とか。

「……僕らの最後の会話に、何が相応しいか考えてみたんだ」

「それは興味深いな」

「僕らって、ほら、小難しい話ばかりしてきたでしょう。僕らでさえ全容を理解していないような話」

「ああ」

 彼女がさっき挙げたような、正義や物語について。答えを見つけることが目的ではなく、答えを探すことさえ目的ではなく。彼女の言葉に耳を傾けて、ささやかな言葉を返すことが始まりで、きっと、終着点だった。

「だから最後は、明日の天気の話をしよう。明日のニュースの、おまけみたいな占いの話でもいい」

 猫のように大きな目を丸くして彼女は少しの間考え込むように目を瞑る。言葉を咀嚼するように二度深く息を吸って、それからずっと遠くの空を見つめた。

「明日はきっと大雨だよ」

 落ち着いた、慈雨のように凪いだ声がそう告げる。

「どうして」

 相槌のように尋ねれば、彼女はもう一度僕の方を見て、胸が苦しくなるくらい優しく笑った。

「雨のあとには、いつだって虹がかかる。君が教えてくれただろう?」

 どうしようもなく泣きそうになって、僕は何も言えないままその瞳を見つめる。死にたくない、と焦って喚くような未練は特にないけれど、彼女の笑顔を二度と見ることが出来ないと思うとなんとも言えない気持ちになる。それと同時に、僕はその笑顔をずっと見ていたいと思った。まるで恋心のような感情で、沢山の言葉を交わしたいと思った。

「君は、自分の名前が嫌いだと言うけど、僕は好きだよ。君の名前」

「私は君の名前が好きだよ。晴。それに自分の名前もそれほど嫌いじゃなくなった。君が色々と教えてくれたから」

「それはよかった、雨音」

 雨は嫌いだ、と語った彼女に、僕はいくつかの雨の名前を教えてあげたことがある。甘雨、喜雨、催花雨、慈雨。君の名前にはこんなに沢山の素敵な意味があるんだと、伝えたくて。

「晴、最後に君に言いたいことがあるんだ」

 ようやく体を起こした彼女につられるようにして僕も屋上に起き上がると、彼女が真正面から僕を見つめる。あの頃と変わらない真っ直ぐな瞳で。

「私は、君が好きだよ。晴」

 彼女はそう言って笑った。年相応の、柔らかい、無邪気な笑顔で。




 一人、静かな帰り道を歩く。彼女に「好きだよ」と言われたとき、何も言わなかったのは下らない意地みたいなものだ。僕から言えばよかったとか、もっと早く伝えるべきだったとか、その程度。僕が雨の種類を沢山知っているのは、彼女に自分の名前を好きになってほしいからだと知れば、一体どんな顔をするのだろう。やっぱり、全部伝えてしまえばよかった。言いたいけど言えなかった、なんて笑ってしまいそうになるくらい普通の失恋だ。不思議な関係の僕らには似合わない、純粋な恋の終わりだ。

 僕らは至って普通に「さよなら」を言った。まるで世界が終わるはずないみたいに。明日があって、明後日があって、その次があるみたいに。

 それなのに、世界は終わる。僕の淡い恋を置いてけぼりにして、終わってしまう。それが、ああ、どうしてだろう。途方もなく悲しいのだ。

「……好きだよ」

 ひとしずく、僕の頬を伝った。

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