夏休み、ぼくは一回り小さなパンツを履いた
林きつね
夏休み、ぼくは一回り小さなパンツを履いた
41日間の夏休みの16日目、ぼくは親戚のおばあちゃんのうちにきていた。14日目から来ていて、18日目になったらうちにかえる。
しめ付けられるような暑さの中で、ぼくはおちんちんの周りをしめ付けられるようなパンツを履いていた。
ぼくが普段履いているパンツは、『S』という文字が書かれている。だからぼくはお店で『S』と書かれたパンツを買ったつもりだった。
でも、『S』にもいろいろあるらい。
ぼくがふだん履いている『S』よりも、一回りも小さい『S』がこの国にはあるらしい。多分、ぼくが今よりもっと小さいころ、この小さな『S』と同じ『S』を履いていたんだと思う。
とても苦しい。
それでもぼくはこの『S』を履かなければならない。これを履かなければ、ぼくは今パンツがないからだ。
おちんちんを放り出したまま外に出てはいけないということをぼくは知っている。おちんちんを放りだしたまま外に出ると、お母さんにとほほをぶたれてしまうからだ。
だからぼくは頑張った。誰かに見られないように、こそこそと隠れながらお店を目指した。
おばあちゃんの家の近くでお菓子を売っているぼくのおばあちゃんじゃないおばあさんは、お菓子以外にも色々売っている。もちろん、パンツも。誰かに見られてはいけない。見られるとたぶんおこられてしまうから。
でも、大丈夫だ。買い物をするとき、ぼくとおばあさんの間には、ぼくの首ぐらいの高さのしきりがあって、ぼくがおちんちんを放りだしているところは、おばあさんには見られないようになっている。
ぼくは言った。
「『S』のパンツをください」
「ああ、はいはいSサイズね。これだったかね」
「袋はむいてください。理由はわけあって言えません」
「ああ、川遊びでもしたのかい? いいよ」
そしてぼくは、無事にパンツを履いていないことを誰にも知られることなく、パンツを手に入れた。
これでだれにも怒られることはない。でも、ぼくのお尻は悲鳴をあげている。
でも、明日履くパンツはいつも通りの『S』だから、この苦しみは明日で終わる。それとも、この苦しみは明日まで続いてしまう。なのだろうか。
どうしてもこんなことになったのだろう。
夏休みといえど、だ落は許されない。ぼくは朝の6時半に起きて、ラジオ体操をして、温かいお味噌汁と食パンを食べた。
それから歯をみがいて、顔を洗って、そして出かけようとした。けれどお母さんか言う。
「まさお、宿題は〜?」
なんてことだ。ぼくは昨日も一昨日も一昨昨日も宿題をやったのに、お母さんはまだぼくに宿題をやれという。
たしかに、終わってはいないけど、それはあんまりだと思う。
お父さんだって、7日間のうち2日間は休んでいる。大人がそうなんだから、子供のぼくは5日間のうち2日は休まなくてはならないはずだ。
とてもかなしい。泣きたくなった。
けれど『泣いているばかりじゃなにもわからないでしょ!』とついこの前怒られたばかりだ。
だからぼくは考える。どうすれば宿題をせずに遊びにいけるのだろう。
お母さんはなぜぼくに宿題をしろと言うのだろう。
それは、宿題がまだ残っているからだとわかった。ずっと前、同じことを聞いたらそう言われたのを覚えている。
つまり、宿題がなくなればぼくは宿題をする必要がなくなり、お母さんからも「宿題をしなさい」と言われることがなくなる。
そして、ぼくはもう一つ思い出したことがある。
ある日のお母さんのことだ。
お母さんはお昼ご飯の用意をしていた。それなのに台所を離れて、洗面所の方にも行っていた。洗濯もしているらしい。
「どうして一つずつやらないの?」
ぼくは聞いた。
するとお母さんはぼくの頭を撫でながら言った。
「二ついっぺんにやったほうが、遊べる時間が増えるからよ」
「大変じゃないの?」
「うーん、そんなにかな。なんていうのかな、上手いことやってるのよ」
閃いた! という言葉がある。
今まさにぼくはその閃いた! 状態だと思う。今のぼくの悩みとお母さんの言葉、その二つが合わさって、すばらしい解決策を思いついた。
宿題を無くす。あそびに出かける。
ぼくもあの日のお母さんのように、二つのことをいっぺんにやるんだ。
そうと決まれば、行動だ。
ぼくは手さげカバンの中に宿題を入れる。そして大きな声で「いってきます」と言って玄関を飛び出た。
そしてぼくは小川にやってきた。
橋のよこには少し歪んだ階段があって、そこから降りれば石がいっぱいの道が続いている。
そこを水の流れとは反対の方向にすすんでいけば、石がいっぱいの道の終わりのところにつく。
けれど、よこの草がボーボーに生えている場所に入って、そのままぐるっと回るようにして、水の流れと逆方向にあるくと、さっきの小川だけど、なんだか少しちがうような場所にでる。
そこは橋の近くから見る水よりも、流れがゆっくりで、綺麗で、すごくいいにおいがする。
この場所は、ぼくのひ密の場所だ。
はじめておばあちゃんのうちにきた時にたまたま出会ったうつくしいお姉さんに教えてもらった。
だから、おばあちゃんのうちに来ているときは、よくここに来る。
ぼくの"出かける"は、ここに来るということだ。
そして今日はもう一つ、目的がある。
宿題を無くす。そのためにぼくは、手さげカバンをひっくり返して、宿題を全て川の中に入れた。
――というようなところまで思い出せた。
気がつくとぼくはおちんちんを放り出したまま、橋の下にいた。
けれどおかしい。
話がつながっていないような気がする。なんで宿題を捨てることが、おちんちんを放り出すことにつながるんだろう……。まちがえて服も一緒に捨ててしまったのだろうか。
そう……服……。
「あ」
ぼくは今大変なことに気がついてしまった。ぼくは今、ギチギチと音を立てるパンツしか履いていない。でも、今日の朝家をでるときはちゃんと、シャツを着ていたしズボンも履いていた。
けれど今のぼくにはなにもない。パンツだけの問題じゃなかった。
あぶなかった。本当に、あぶなかった。パンツさえ履いていれば大丈夫なつもりでいた。
この前、服を泥だらけにして家に帰ったときも、お母さんはそれはそれは大変な怒り方をしていた。
服は、お母さんにとってとても大切なことなんだ。
これは帰れない。
パンツを履いても、宿題を終わらせても、服がないんじゃお母さんはオニになったままヒトに戻れなくなってしまう。
これは、そう、ぼくは解明しなくてはならない。この謎を。服が消えた謎を。
ぼくはもう一度、あの気持ちの良い川の場所へ向かった。
はじめてぼくがあの場所に行ったとき、ぼくの背はもっと小さくて、手足ももっと短かった。
それでも、好奇心というやつは多分いまより大きかったんだと思う。
その頃は、お母さんに「出かける時はお母さんもついて行くからちゃんというのよ」と言われていた。でもぼくは、だまっておばあちゃんのうちをぬけだして、大冒険をしていた。
おばあさんのお店で、お茶を飲んだ。木にのぼろうとして、のぼれなかった。
橋の下をのぞいて、怖くなってはなれた。そして、階段の下に降りてみた。
この川はどこからくるんだろう。多分そんなことを思いながら、ぼくはかけていった。しばらく進むと行き止まりになってしまった。
その頃、あの草はどのくらい生えていただろうか。今よりもずっと大きくたくさん生えていた気がする。でもそれは、ぼくが大きくなったからそう思うだけで、じつはあまり変わっていないのかもしれない。
よいしょと、段差をのぼる。そういえば、あの頃ぼくはここをのぼれなかったんだ。足が短くて、上にあがれなかった。それでもムキになってウンウンと頑張っているうちに、あのお姉さんが手を差しのべてくれた。
そこからはまるで空を飛んでいるみたいに、けわしい道をスイスイと進むことができた。
そしてあの気持ちの良い場所について、そうだ、なにか大切な話をした気がする。とても大事な約束をしたきがする──。
『おねえさんは?』
『わたし? わたしはここに住んでるんだよ』
『しってる。ほーむれすっていうんだ』
『無いわけじゃないよ。本当にここが家なんだ。まあ、あれだよ。今はお盆だからね。夏の幻想だとでも思ってくれればいい』
『おねえさんはこどもにやさしくないはなしをする』
『あんたはちょっと子供っぽくないなあ……』
長くなった手と足で、すいすいうんしょと道を進む。
あの夏から毎年、ぼくはこの道を進んでいる。年々、楽になっていくのを感じる。
結局、お姉さんの手を借りたのは、あのときだけで、そして、お姉さんと会ったのも――。
『毎日来るねえ、あんた。お母さん、心配してない?』
『うん。だからまいにちおこられる』
『ま、悪い子』
『でも、あいたくなる』
『……うーん、じゃあ許しちゃうかあ』
ぼくの頭をなでるその手が、すごく冷たくて、気持ちよかったことをおぼえている。
そうだ。ぼくはあのお姉さんに会うために、あのお姉さんに会いたくて、ぼくはずっとここに来ていた。
なんで忘れていたんだろう。テレビでやっていた。人間はのうみそに記憶をたくわえているらしい。もしかしてぼくは服に記憶をたくわえていたのだろうか。
それなら、忘れていたことに説明がつく。
『そっか、明日で帰るんだ』
『……』
『元気でね。久しぶりに人間と遊べて楽しかったよ』
『………』
『おいおいどうしたの。やけに暗いじゃない』
『また……あえる?』
『――さあ、どうだろう。うん、そうだね。あんたがいい子にしていたら、また会えるかもね』
あの気持ちの良い場所だ。橋のところだとあんなに強く聞こえる水が流れる音も、ここでは聞こえない。
ただ小さく揺れている。おふろみたいだ。
ぼくは今、苦しいパンツだけ履いて、たった一人でこの川を眺めている。
前の年も、その前の年も、そうだった。ちがいといえば、ぼくは服を着ていたことと、やっぱりいまよりちょっとだけ小さかったことぐらいだ。
なぜ、ぼくはあのお姉さんに会えないのだろう。ひょっとしてぼくはいい子じゃないのだろうか。悪い子にならないように、怒られないように努力している。怒られたら反省を次にいかす。
いやだけど、とてもいやだけど勉強だってやっている。
テストではずっといい点を取っている。漢字だって、周りよりずっとたくさん書ける。
先生にも『検定』を受けてみないか? と言われたぐらいだ。
それでも、ぼくはいい子ではないのだろうか。もしかすると、いい子っていうのはぼくの想像よりもずっとむずかしいことなのかもしれない。
たとえば、そうり大臣みたいな──。
「いや、なにがいい子だこの馬鹿たれ」
「あいたっ」
丸めたなにかで頭を叩かれた。
でもそんなことより、ぼくにとって大事なことが起きた。忘れることのなかったはずの声。なぜか少しだけ忘れてしまって、さっき思い出した声。
「お姉さん!!」
「嬉しそうにしちゃってまあこんの悪い子が」
「そうか……やっぱり、ぼくは悪い子だったんだ……」
うなだれたぼくの頭はもう一度スパーンと丸めたなにかで叩かれた。
「夏休みの宿題川に捨てるのがいい子なわけないでしょうが!」
もう一度スパーン。
三回も叩かれたら、いつもなら痛くて泣いてしまうけど、なんだか今は、うれしさのほうが大きくてじっとお姉さんの方を見てしまう。
「………反省してる?」
「……まだ」
「おりゃ」
また叩かれてしまった。さすがにこれ以上叩かれたくはないから、反省する。どうやらぼくはいけなかったらしい。
そういえば、お菓子のゴミを川に捨てようとした時、お母さんに怒られたことがある。
宿題はゴミではないから大丈夫だと思っていたけど、ゴミかどうかは問題ではないのかもしれない。だから、お姉さんは怒っているのかもしれない。
「川にものを投げてごめんなさい」
「……うん、よろしい」
「だから、怒らないで、もっとお話してほしいな。ぼく、ずっとお姉さんに会いたかったんだ」
すると今度は、叩くんじゃなくて、ぼくの頭をゆっくり撫でてくれた。初めて出会った時は、こんなことしてくれなかったのに。やっぱりぼくはいい子なのかもしれない。
「そうだね。毎年ここでずっと待ってたもんね、あんた」
「え……? お姉さんずっとぼくにいじわるをしていたの?」
「隠れてたわけじゃないよ。ただあんたがわたしのこと見えてなかっただけ。言ったでしょ? 夏の幻想だとでも思いなさいって」
大きくなっても、お姉さんの言うことは難しくてわからない。いつになったらわかることができるんだろう。
「そういえば、お姉さんは全然変わっていないね」
「うん。わたしはもうそういうんじゃないからね」
「ここに住んでるとそうなるの?」
「ま、そういうことかな」
「……お姉さんって、お姉さんの正体って……」
「…………」
「カッパ」
「ちげえよ?」
それから、夕方になるまでぼくとお姉さんは話をしていた。
次会ったらこんな話をしよう。こんなことを教えてあげよう。こんなことを聞こう。
そう考えていたことは、多分ほとんど言えなかった。でも、変わりにお姉さんは色んなことを教えてくれた。ぼくにとってうれしいことも悲しいことも。
ぼくとお姉さんは二度とこうして喋ることはできないらしい。4回も叩かれたのより、ずっとずっと大きな痛みがやってきて、ぼくは泣いてしまった。それでもお姉さんはやさしく言った。それは悲しいことじゃなくて、ぼくが大人になっていくということらしい。心がゆれなくなるということらしい。
そしてもう一度怒られた。
ここはよくないものが集まる場所らしくて、そこにものを捨てたから、そのよくないものが怒ってぼくをどこか怖い場所に連れていこうとしたらしい。服と少しの記憶だけですんだのは、誰かが守ってくれたかららしい。
その誰かを、お姉さんは言わなかったけど、ぼくはわかってしまったので、お姉さんにお礼を言った。
するとお姉さんにかみをぐしゃぐしゃにされて、なにかを投げわたされた。
「はい、これあんたの宿題と服。綺麗にしておいたから、着替えて帰りな」
そういえばずっとパンツしか履いていなかったことを思い出して、とてもはずかしくなって顔が真っ赤になった。そして履いているパンツのところは、肌が青くなっていた。
でも、お姉さんの前でおちんちんを放りだすのは、なんだかとてもいやだったから、そのままズボンを履いて、元の『S』と書かれているパンツはそのままポケットにしまった。
「どうして今日、ぼくはいい子じゃなかったのに、お姉さんと会えたの?」
このシャツを着たらきっとお別れだ。だからその前に、聞いてみることにした。
人の気持ちを考えなさい。とぼくは教えられている。でも、お姉さんはぼくの気持ちを考えてくれているのだろうか。ぼくはずっと泣きそうなのに、お姉さんはずっと楽しそうだ。
「うーん、奇跡かな」
そして楽しそうなまま、お姉さんは言った。
「きせきなら……また会えるね」
シャツに手をとおして、ぼくは言った。「どうして?」とお姉さんは笑ったまま聞いてきた。
「マンガを読むと、かならずきせきが起こってるから」
ぼくは真剣にこたえた。けれどお姉さんは声をあげて笑った。ひどい。と思った。
「ああ、ごめんごめん。でもそう言えるのは素敵だと思ったよ。ほんとほんと」
あのとき、ぼくが初めて出会ったお姉さんは、なんだかまるですごい人に見えた。お月様よりきだなと思っていた。
「お姉さんは、実はそんなにすごくないのかもしれない」
「うえ、急に酷いな」
「でもやっぱり、また会いたいよ」
ぼくは知っている。わからないことはなんでもすごく見える。でも勉強して、しくみを理解すれば、そのすごいはうすくなって、別のなにかに変わるんだと。
つまりぼくは、あのときより、お姉さんのことを理解したんだと思う。だから、また会いたい。もっと理解したい。
お姉さんの言ってることはよくわからないけど、これがまぼろしなのは、いやだな。
「うん。わたしも会えるとうれしいかな」
お姉さんが僕のからだを包む。冷たいのに、とても温かく感じる。
「わたしはもうこの世にない幻想だけど、その幻想をここまで強く求めてくれるのは、嬉しいな」
ふわふわとした感覚がやってくる。それでも、お姉さんの声だけはしっかりと感じる。そして、お別れなんだということも。
「じゃあ、また会えたら会うとしようか。不思議な夏はここまでだ。ここからは思う存分、不思議でない夏を楽しむといいよ。それじゃ、いい子でね」
お姉さんに抱きしめられて、そのまま干したての布団に包まれたような気分になって、眠ってしまって、目が覚めた時はおばあちゃんのうちのぼくの布団の中にいた。
机には、宿題が綺麗に置かれているし、ぼくは服をちゃんと着ていた。
これが、この夏の最後の不思議だった。
立ち上がろうとしたら、なんだか痛い。おちんちんの上あたりがすごく痛い。
パンツがぼくのからだを締め上げている。
ということは、これまでの不思議は不思議であって、きっとまぼろしではなかったというだ。
穴だらけのような感覚だけど、一番だいじな部分は埋まっている気がする。
いま穴だらけのところは、いつか埋まる気がする。
ぼくはもっと大きくなって、いい子になるのだから。
「まさおー、起きた? 宿題はやったの?」
お母さんの声がする。お姉さんの声を思い出す。痛いパンツを脱いで、痛くないパンツを履く。
それでもやっぱりぼくは、宿題を見て「いやだなあ」と思ってしまった。
夏休み、ぼくは一回り小さなパンツを履いた 林きつね @kitanaimtona
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