八、三番勝負の三 〜弓競べ〜
庭を見下ろす紫宸殿の屋根の上で、一羽の雀が高らかに鳴いた。
「勝負の三番は弓競べです。方法は“近寄せ”。ひとつの的にそれぞれが一本ずつ矢を射て、より中心に近い箇所を射貫いた方の勝ちとします」
頭弁の説明の通り、庭の北側には大きな的がひとつ置かれていた。そこから七、八丈離れた南の向かいに一本の錦の紐が敷かれている。ここから射るべし、という目印だ。
「先攻は西の方、蔵人少将の斎」
「はい!」
凜と声を張り、斎が進み出る。身の丈よりも大きな弓を担いで、まっすぐ前方の的を見た。その表情に恐れや迷いはなく、立姿は清廉な美しさに満ちている。
この時になると、観衆のほとんどは複雑な思いで斎を見守っていた。帝を想うがゆえに私心を捨て、ひたむきに勝負に向き合う少女。できれば純粋にその勝利を応援してやりたい。だが彼女が勝てば、帝が娶るのは左大臣の姫である。
皆が皆、心のどこかで思い始めていた。
真に花琉帝の中宮にふさわしいのは、後の国母となるべきなのは、まさにこの少女なのではないか――と。
当たれ。外れろ。当たれ。外れろ。
全員が相反する思いでその一射を見守った。
斎は背の平胡籙から矢を一本引き抜くと、落ち着いた手つきで
すぐにズドン、と重たい音がした。的がわずかに震え、風が凪ぐ。ほとんど直線に飛んだ矢は見事、深々と的に突き刺さっていた。
「(なんと、これは……!)」
その場にいた全員が驚嘆に息を呑んだ。左大臣は感心のあまり手からぽろりと扇を落とした。
なんと――斎の放った矢は、的の正中も正中、これ以上ないくらいのど真ん中を射貫いていたのだ。
あまりに素晴らしい、奇跡のような一射だった。観衆はその見事さに一瞬高揚して、すぐに一様に失望する。
これで斎の勝ちは確定した。先攻の矢がど真ん中に刺さっている以上、後攻の帝がこれ以上に中心を射ることはできない。
――つまり、この少女は帝の妻とはなれない。
「「「「(空気を読めよ!!)」」」」
その場にいたほぼ全員が心の中でそうつっこんだ。
ここは接戦の末斎が負ける、という流れがどちらにとっても良い筋書きであろうに――。斎はこうと決めたらどこまでも一途で、それゆえ融通がきかない。
これには帝も思わず苦笑いが漏れてしまう。
「なんとまあ、お前はそんなに私の妻になるのが嫌なのかい?」
「えっ!? いえそんな、めっそうもない! 斎はただ、この一矢に全身全霊を込めただけにございますれば……!?」
せっかく会心の一矢を放ったのに、周囲からは歓声のひとつもない。場の空気がどんよりと重くなったことにさすがの斎も気付いたらしい。
事態が呑み込めずにあわてふためく様を見て、帝はもう一度小さく笑った。
「いいさ。それでこそ私の妻にふさわしい。――弓を」
帝はゆっくりと
「さて、仏門を捨てた私に天は味方するかな」
ゆるりと競技線の上に進み出て、帝は瞑目した。次に深く息を吐いた。弦を一度、強く打ち鳴らす。
邪気を払う。神気を吸い込む。まなじりを強くして天を仰いだ。
弓を構える。
ずがぁぁあん、と落雷のような轟音がした。寝殿造りの屋根に止まっていた鳥達が、驚きに一斉に羽ばたいた。思わず空を見た観衆達が視線を戻すと、的が地面に倒れている。控えていた武官達があわてて駆け寄り、ふたりがかりで立てて起こした。そこではじめて帝の矢のゆくえを目にして――その場の全員が言葉を失った。
帝の矢は、斎の射た矢ごと貫いてまっすぐ的の真中に突き刺さっていた。斎の矢柄は竹を割ったようにきれいに左右に割れて、玉砂利の地面に落ちている。
「こ、これは……」
近付いて的を確認した頭弁も唖然とする。
競射の近寄せで同着など、本来はありえない。確実に勝敗を付けるために三番目に弓競べを選んだはずだ。だがこれを同着――つまりは引き分け――とせずして、なんと判ずれば良いのか。帝は寸分違わず、斎とそっくり同じ場所に矢を射てみせたのだ。
「三番勝負、弓競べは――。……引き分け……?」
「ええっ!?」
当惑する頭弁の言葉に、斎もぎょっとする。蔵人に弓を預けて下がらせた帝だけは、ふふふと楽しそうに笑った。
「歌はお前の勝ち。剣は私の勝ち、弓は引き分け。となると勝敗は一勝一敗一分……つまり、三番勝負は引き分けだね」
からりと晴れやかに宣言する。途端に観衆がざわつきだした。
「えーっ!? そ、それではこの三番勝負は一体なんのために……」
「ふむ。では
帝は悠々と懐から檜扇を取り出して開いた。
「お前は私にふたつの願いを口にした。私はそのうちの片方を守ろう。そしてお前も、私の願いの半分だけをきく」
その提案に、斎はきょとんと首を傾げた。
「私はふたつも願ってはおりませんよ?」
「お前は私に何と望んだ?」
言われて「うーん」と、先日のやりとりを思い出す。
「えっと、“左のおとどの末姫さまを娶り、中宮をお立てください”と――――あっ」
そこでやっと斎も気付いた。
左大臣家の姫を娶ること。中宮を立てること。
これらは聞きようによってはふたつ分の願いだと取れなくもない。隣の花琉帝を見上げれば、彼は扇で口元を隠し上品に微笑んでいる。
「ああ。そして私はお前にこう願った。“女に戻り、私の妻になれ”と」
ここにきてついに、斎以外の全員が帝の思惑を理解する。
「言うなれば、これは願いの折半だ。私はお前の願いを半分きいて、中宮を立てる。そしてお前は――私の妻になりなさい」
「えっ、あっ、えっ?」
皆が温かい眼差しで見守る中、斎だけが大混乱に陥ってうろたえる。何かを訴えようと焦って四方を見渡し、だが言葉は出て来ずに口をぱくぱくさせている。
「――
わたわたとせわしなく上下する手を、帝が取った。わずかに力を込めて引けば、斎の澄んだ瞳に映るのは目の前の帝だけ。
「ずいぶんと遠回りしてしまった。五年前の即位の時、“私の妻になってほしい”と言ったあの時……。私はもっと言葉を尽くすべきだった。己の心を臆することなくさらけ出し、真摯に乞うべきだった。“お前のすべてがほしい”と」
何かを問い返すより早く、斎の身体がふわりと浮いた。帝が抱き上げたからだ。帝は斎の小さな身体を皐月の陽光の下に掬い上げて、穏やかな朽葉色の瞳を細めた。そうして、歌うようにやさしく、万感の思いを込めて告げる。
「
その瞬間。
わぁああああ、とこの日一番の歓声が爆発した。誰もが疑いなく、新たな中宮の誕生を確信していた。
「左大臣どの、よろしいので?」
右大臣につつかれて、左大臣は大きなため息をついた。
「……儂とて引き際は心得ておるわ」
帝はまるで天上から賜った宝を掲げるかのように、斎を頭上に高く抱き上げた。愛しいもののすべてを己の目に焼き付けて、それからそっと、だいじにだいじに懐に抱く。
大きな腕と祝福の喝采に包まれながら、斎はこの時ようやく
“あいしてる”。
自分はただこの言葉を、ずっとずっと待っていたのかもしれないと。男女の愛の永遠を信じさせてくれる、帝のただこの一言を。
何かひどくあたたかく、それでいてどっしりとせつないものが胸の奥につかえて、斎は上手く言葉を返せなかった。代わりにぼろぼろ、ぼろぼろと珠のような涙が目からこぼれ出す。
だから斎はただ無言で頷いて、ぎゅっと帝の首根っこにしがみついた。
この涙が止まった時には必ず、「私も愛しています」と伝えるのだと決意して。
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