痛い人
増田朋美
痛い人
その日は雨が降って、どこかの地方で大雨特別警報が出るなどして、なんでこんなにというくらい雨が降っていた日であった。その日、大石裕子は、師匠である竹村優紀先生と一緒に、クリスタルボウルの演奏をするために、クライエントさんの家を訪れることになっていた。その日は盆休みだし、世間は休みモードで、みんなどこかへでかけたり、家でのんびり休んでいることが多いのに、なんで自分だけでなければならないのだろうか、と、裕子は思っていたのだが、いずれにしても仕方ないので、竹村さんについていく。
「竹村先生。今日はどちらのお宅を訪問するんですか?こんな日に、演奏を頼むんだから、よほど暇な人なんでしょうかね。」
裕子は、竹村さんの運転する車の中でそんなことを言ってしまった。
「暇な人など、クライエントにはいませんよ。病気の方は、安静にして、病気を治すことに忙しいんです。」
と、竹村さんが言った。
「僕たちはただ、彼に演奏を聞かせに行くのではありません。海外では、クリスタルボウルというのは、悪性腫瘍の治療にも、用いられていますから、ちゃんと、使命感を持って演奏しなければ。」
つまり、その話を聞いていると、クライエントは、男性ということになるらしい。いったいどんな人なんだろうか。裕子はそんなことを考えた。今日は最も重症な人のための、クラシックフロステッドと呼ばれる真っ白い楽器を使用すると言っていたから、かなり症状の重い人だろうと思われる。裕子はクリスタルボウルの種類はだいたい知っていた。竹村さんが、それに応じて使い分けているのもわかっていた。最近は、持っていくクリスタルボウルの種類で、どんな症状の人か、想像するのが好きだった。
「今日治療する方も、よほどひどいうつとか、そういう方なんでしょうか?」
裕子は軽い気持ちでそう聞いてみた。
「いえ、それはわかりません、でも、それを問題にしていたら、クリスタルボウルは、成り立たなくなりますよ。」
と、竹村さんはサラリと言った。重症者のための楽器を使うのに、診断名は関係ないのか?裕子は変な気持ちになった。
「いずれにしても、依頼をされればすぐ行くのが治療者というものですよね。すぐに行きましょうね。」
「わかりました。」
裕子はとりあえずそういうのであるが、診断名も何もつかないのに、依頼をしてくるなんて、世の中は変わってきたなと思うのであった。
「はい、ここですよ。到着しました。」
竹村さんは、日本旅館のような形をした建物の前で車を止めた。何だこれ、大正時代の建物を再現したようなものじゃないか。こんなところ、まるで大昔へタイムスリップしたみたい。こんなところに、人が住んでいるのが、裕子には信じられなかった。観光として行くのと、実際に住むのとはわけが違う。住めば大変に不便なところが出てくるに違いない。竹村さんは、クリスタルボウルを台車の上に乗せてそれを押して、玄関まで行き、呼び鈴のない玄関の扉をガラッと開けて、
「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルセッションに来ました。」
と、中に向かって言うと、
「はいはい、お待ちしてました、上がってきてくれる?」
という声が聞こえたので、竹村さんはすぐに台車を中へ入れて、そのまま建物の中に入った。不思議なことにこの建物は上がりかまちがないので、台車をすぐに入れることができた。そのまま、竹村さんは、廊下を歩いて、一番奥にある小さな部屋に入った。裕子もあとをついていった。
患者である人物は、そこにいた。車椅子の杉ちゃんが、看病人として付き添っていた。その人は、なにか座っているのもつらそうな雰囲気で、それでは大丈夫かというくらい痩せてやつれていた。でも、その顔はとても美しくて、海外映画に出てくる俳優さんみたいにきれいだった。からだも小さくて痩せていたから、大きな丸い目が更に美しさを際立たせているような気がした。
「おう、竹村さん。こんな雨の中ですけど、来てくれてありがとうな。雨の音が加わると、クリスタルボウルのおとも違うんでしょうね。」
隣にいた杉ちゃんは、そういうことを言った。
「そうですね。たまにはこういう雨もよろしいのではないですか。まあ確かに、被害が出てしまうのは、心配ではありますけれども。」
竹村さんはそう言いながら、縁側にクリスタルボウルを7つ設置した。
「おい。この女性は一体誰かな?」
杉ちゃんに言われて竹村さんは、クリスタルボウルを習いに来ている女性だと答えた。最近そんな女性が増えているな、と、杉ちゃんは笑っていた。
「じゃあ竹村さんお願いします。」
と杉ちゃんが言うと、竹村さんはマレットをとって、クリスタルボウルを叩き始めた。ゴーン、ガーン、ギーン、とお寺の鐘のような音。それはどこか体に染み渡るというか、自分のからだの存在を示してくれるような音でもあった。この音を聞きながら、杉ちゃんたちはとても楽しそうだった。マレットで、クリスタルボウルをたたいたり、縁をこすったり。そんな不思議な奏法で、クリスタルボウルはなり続けた。ゴーン、ガーン、ギーン、という音を聞きながら、裕子は自分の過去のことを思い出す。自分も原因不明の症状があった。医者はどこにも異常はないと言って、いわゆる自律神経失調症と診断を下した。精神科にも通ったが、一向に良くならないで、学校もやめなければならなくなった。そんな中で母親が、受けて見ろと言って、クリスタルボウルを勧めてくれたのであった。そういうスピリチュアルなことのほうが、早く治してくれるのではないかと思ったのだろう。裕子はそういう存在は好きではなかったが、竹村さんがここを手伝ってみろというので、仕方なくそうしたのである。
そんなことを考えているうちに、演奏は終わった。同時にあのきれいな男性が急に咳き込み始めたので、裕子はびっくりする。杉ちゃんが急いで彼の背を叩いたりさすったりした。その人の口元から赤いものが出てきたので、裕子はまたびっくりした。竹村さんは、こうなるのは正常な反応だと言った。クリスタルボウルの音が血行を良くしてくれたため、余分なものを吐き出させようというようになるという。竹村さんは、平気な顔をしていたが、裕子は心配になってしまうのであった。
「大丈夫です。数分でおさまります。」
竹村さんが言うとおり、咳き込むのはだんだん静かになり、しばらくして止まってくれた。その男性は、口もとを自分で拭いて、竹村さんに、
「ありがとうございました。」
といって頭を下げた。
「良かったねえ、今日は畳を汚さないでくれて本当に良かった。」
杉ちゃんがはあとため息を付く。
「それでは、水穂さん少し休みましょうか?」
竹村さんは、水穂さんに布団に横になるように促した。水穂さんは、そのとおりにしながら、裕子の方を見た。裕子が返答を考えていると、
「良い奏者を目指して頑張ってください。」
と、水穂さんが言った。そんなこと、私が言われる立場ではないと思うのに。杉ちゃんのほうが、余計な気遣いはしなくていいから、早く寝ろ、というので、水穂さんは、はいとだけ言った。
「それでは、来週の水曜日でよろしいでしょうか?週に一回、セッションをということでしたよね?」
と、竹村さんが言うと、
「おう、頼むな。」
と、杉ちゃんが言った。
「またこっちへ、今日と同じ曜日に来てくれや。よろしく頼むぜ。」
「はい、わかりました。こちらこそいつもありがとうございます。何回も依頼してくれて嬉しいです。」
竹村さんは手帳に予定を書き込みながら言った。
「いやいや、こちらこそ。水穂さんもクリスタルボウルを聞くと調子が良くなるみたいだし。こっちも嬉しいな。」
杉ちゃんはまた竹村さんに頭を下げていった。
「それでは、また次のクライエントさんの用事もありますのでここで失礼します。」
竹村さんは、クリスタルボウルを手早く台車の上に乗せて裕子にももう帰るように言った。裕子はもう少し、水穂さんのそばにいたかったが、竹村さんの支持には従わなければならないので、仕方なく立ち上がった。もう一度水穂さんの顔を見た。本当にきれいな人であった。いつまでも眺めていたくなるほど、きれいな人であった。裕子は、竹村さんに促されて、軽く頭を下げて、四畳半を出ていった。
「裕子ちゃん、一体どうしたのよ。」
いきなり母親に言われて、裕子ははっとする。
「いや、なんでもないわ。本当になんでもないわよ。」
と、裕子は箸を持ったまま、そういうことを言った。
「じゃあ、早く食べちゃってよ。今日は鈴木さんたちが来ることになっているのよ。」
鈴木さんというのは、裕子の家がずっと付き合い続けている、親戚のことであった。いや、無理やり付き合わせれていると言ったほうがいいかもしれない。毎年、お米を持ってきてくれるのであるが、裕子はただ無理やりお米をかわされている様にしか見えないのだった。
裕子が朝食を食べ終えて、流しへ食器を持っていったのと同時に、一台の車がやってきた。
「こんにちは、鈴木です。お米を持ってきました。」
にこやかな顔をしてやってきた、親戚の鈴木陽子さんは、本人はそんなことを夢にも思っていないかもしれないが、すごい権力を見せているような気がするのだった。鈴木さんは、多くの土地を持っていて、いろんな人に貸している。裕子の家や持っている畑などは、全て鈴木さんの家の管理されたものである。
「お母さん、これどこに置きましょうか?」
そう言いながら、鈴木さんの一人息子である、鈴木武雄君が、入ってきた。確か、鈴木さんがやっている農業を手伝ってると聞いていた。何度か企業ではたらいていたこともあったようであるが、いずれも長続きせず、畑を継ぐことにしたという。それで幸せにやっている武雄くんのことを、裕子は好きになれなかった。
「じゃあ、ここに置きますよ。」
武雄くんは、重たい米の袋を、土間の上に置いた。そうやって武雄くんは、重たい米の袋をどんどん玄関先へ置いていく。確かに、力があって頼もしいのであるが、有名な学校を出ているわけでもなく、本当に平凡な男だった。
「それでは大石さん、結婚式の日付などはどうしましょうか?こういうことはえんぎもんですから、早く決めちゃったほうがいいと思うんです。真夏や台風の時期は避けて。どうしましょうね?」
鈴木さんはいきなり裕子の母に言った。裕子はもうそんなことまで決まってしまっているのか、とびっくりしてしまった。母は、鈴木さんにこの日はどうでしょうかとかそういうことを話している。鈴木さんには逆らえないことは知っていたが、裕子は結婚式の日程まで親が決めてしまうというこの地域性に、ものすごく嫌な気持ちがした。
「本当に、武雄くんが、裕子をもらってくれると聞いて安心いたしました。武雄くんは真面目だし、よく働いてくれるし、言うことなしです。」
「ええ、こちらこそありがとうございます。何しろ流行りのイケメンではないし、あの顔ですから、誰も女はこないと思っていましたので、こちらも嬉しいです。武雄も、裕子さんのことを本当に好きなようですから、似合いの夫婦になりますよ。」
ちょっと気の強い鈴木さんはケラケラ笑って、そういうことを言った。どうしてそうなってしまうのだろうかと裕子は思った。安全路線を行けばいいのかもしれないが、私も一度だけでいいから、恋愛をしてみたい。そんなことを考えている裕子だった。
「それじゃ、よろしくおねがいしますね。今度あったときは、式の場所とか決めましょうね。」
「はい、わかりました。」
二人の親たちはそういうことを言っているのであった。はあ、なんでこんなに早く、と思ったけれど、親たちには逆らえないので、そのままにするしかないのである。でも、なにか嫌だというか。結婚する前に一度でいいから。好きな様に恋愛してみたかった。確かに武雄くんは、きれいな人ではないが、よく働くし、謙虚な性格で夫としては、申し訳ない人物であった。そんな武雄くんと結婚できたら、間違いなく幸せになれるかもしれないが、どこか違うのである。どこか完璧すぎるのである。それよりも、誰か、本当に愛せる人がほしい。
その時、裕子の顔に水穂さんの顔が浮かんだ。ほんとに好きなのは、あそこで出会った水穂さんなのではないか。と、裕子は思った。ああいう苦しんでいる人のほうが自分のことを、愛してくれるのではないか?裕子は、もう我慢できなくなって、急いでタクシー会社に電話した。そして、タクシーを一台呼び出し、大渕にある、日本旅館のような建物へ連れて行ってもらった。
裕子が、到着すると、建物の玄関は開いていた。すみませんと言いながら裕子は引き戸を開けてしまう。
「お前さん一体何をしに来たんだよ。」
不意にそういう声が聞こえてきて、誰だと振り向いたら、杉ちゃんだった。
「あの、すみません、水穂さんはいますか?」
と、裕子は聞いてしまう。
「はあ、いるにはいるんだけどねえ。ちょっと、来客ができるような状態ではないね。もし、なにかくれるんだったら、またあとにしてくれないかなあ。」
と、杉ちゃんに言われて、裕子は、どうしても会いたくなって来てしまったといった。その真剣そのものの目を見て、杉ちゃんは、
「まあいい、入れ。」
といって、彼女を中に入れてあげた。
「とりあえず起こすけど、ようがあるなら短時間にしてやってくれよ。」
杉ちゃんは、四畳半に行った。四畳半には、水穂さんが布団で眠っていた。杉ちゃんが、おい、起きろ、お客さんだぞ、と言って、彼を揺すぶり起こすと、なんとか目を開けてくれた。
「ああ、こないだ、竹村さんと一緒に、ここへ来てくれた方ですね、一体どうしたんですか?」
水穂さんは、よろよろ布団に起きた。その姿は、前よりもっとやつれた、痛々しい風情だった。
「あたし、本当に担当直入に言いますけど、水穂さんのことが好きです。あたし、今婚約している人よりずっと好きです。それは、いけないことでしょうか?」
と、裕子は思わず言ってしまう。水穂さんは、ちょっと驚いた顔をしていたが
「いや、僕には無理です。」
と一言だけ言った。
「お前さんも変わっているな。せっかく安全路線を用意しておいてくれてあるのによ、こうして、痛い人を好きになるんだからなあ。変なやつとしか言いようがないな。それともお前さんは、痛い人しか愛せない、おかしな体質なんだろうか?」
と、杉ちゃんがでかい声でカラカラと笑った。この人は、私の大事なシーンをバカにしていると、裕子はちょっと怒ってしまったが、
「いえおかしな体質とか、そういうことではありません。私は、本当に水穂さんのことが好きなんです。本当に好きなんです。」
と、裕子は言ったが、水穂さんは、大変悲しそうな顔をするのだった。普通好きだと言われたら、嬉しい顔をするはずなんだが、それがどうしてないのか、裕子にもわからなかった。
「水穂さんは、私の気持ちを受け取ってくださらないんですか?」
と、裕子は聞いてみる。
「ええ、無理ですよ。だって、僕の出身は伝法の坂本ですもの。これがなにをいみするか、あなたもすぐにおわかりになるでしょう?」
伝法の坂本!それはまたすごいところだった。その地区は、富士でも有名な同和地区として知られていた。今はゴルフ場になっているらしいが、そこには昔、動物のかわを使って、草履などを作る人が住んでいたという。確かそこに住んでいる人たちは、新平民と呼ばれ、バカにされていたということを、裕子は鈴木さんから聞いたことがあった。そこを通るときは大変不潔なので、通っては行けないとも、鈴木さんは言っていた。
「本当にそうなんでしょうか?」
もしそうなら、まさしく突然変異と思われるほど、水穂さんはきれいだった。そういう地区に、こんなきれいな人が出るのかというくらいきれいだった。
「まあ言ってみれば、ミャンマーのロヒンギャみたいなもんだよな。そういうやつと恋愛して何になるんだよ。お前さんが大損するだけで、何もないよ。だったら、安全路線をいったほうが確実に幸せになれるというもんだぜ。そういうやつと一緒になったら、お前さんも、ロヒンギャと一緒だということで、馬鹿にされるようになるんだからな。お前さんのような女は、そういうことに耐えられないだろ。さ、馬鹿なこと言わないで帰った帰った!」
杉ちゃんにそう言われて、裕子は、確かに、水穂さんの病気が治らないのも、そのせいもあるんだろうなと言うことを感じ取った。そういうことは、やっぱり私のような人が手を出しても何もならないだろう。日本の歴史を変えなければ解決できない問題であるから。海外でも、ロヒンギャだけではなく、クルド人とか、似たような民族はいる。人間である以上、そういう人たちと言うのは、どうしても出てしまうものらしい。そして決定的な違いは、一番幸せになれる方法は、そういう人たちと関わりを持たなと言うことであるのだ。
「確かに、僕のことを好きになってくれることは嬉しいんですけど、残念ながらお受けすることはできません。僕のせいで、不幸になってしまったら、それはいけないことですのでね。それでは、僕もつらすぎますし、あなたも辛いでしょう。」
と、水穂さんは、そこまで言って、ひどく咳き込んでしまった。ああ、バカ!こんなところでやるな、と杉ちゃんが言っているが、裕子は、決意を固めてこういうのだった。
「すみませんが、水穂さんの背中をさすって上げてもよろしいですか?」
「はあ、いいけど、、、。」
杉ちゃんがその場を離れると、裕子は急いで水穂さんの背中を叩いたりした。杉ちゃんはその間に、枕元にあった水のみをとって、
「ほれ、これを飲むんだな」
と、飲み口を水穂さんの口元へ突っ込む。なんとか中身を飲んでくれる音がして、しばらくすると咳き込むのはやっと治まってくれた。水穂さんは布団に崩れ落ちるように、横になった。杉ちゃんがそれに掛ふとんをかけてやる。裕子は、水穂さんにごめんなさいとだけ言って、その場を離れることにした。
痛い人 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます