#11
やっぱりあたしはこの地下の閉ざされた、排他的で独善的な空間が好きだ。
絵里に貰ったチケットと引き換えに受け取ったドリンク券を握りつぶしながら、あたしはそんなことを思う。
大バコの、どこかオーディエンスに媚びた匂いのするような空気感では、生み出されることのないオーラみたいなもの。このちっぽけなハコには確実にそんな、どこか野暮ったくて、どこか刺々しい、湿気と熱気が存在する。
フロアを満たすオーディエンスに例え振り向かれなくても、いやそれどころか、彼らが苦痛を感じる轟音を浴びせられても構わないと言うエゴイスティックな感情に満たされた世界が、ここにはある。
それでもそんな、敬意を全く払われていないオーディエンスが無言で湧き上がらせる、目に見えない期待感みたいなものも感じる。
前回ここでゲバラたちのライブを見た時とは、かなりギャップのあるウェルカムな空気。
それはあれからほぼ毎週ライブを続ける事で、ゲバラたちが勝ち取った評価なんだろう。恐らくは、繰り返すたびにそのパフォーマンスを進化させて。
照明が消える。途端に、オーディエンスはゆっくりと、でも確実に、ステージに向けて互いの間の空間を縮めていく。
あたしはその流れに乗れず、フロア中央に立ち尽くす。
ゲバラたちがステージ上手から姿を表した。
ざわめきが、ボリュームを増す。
歓声には至らない、ざわめき。
無防備に称賛を得られるまでには、まだゲバラたちは至っていないんだ、と悟る。
でも、分かる。感じる。
何かを弾けさせたくてうずうずしてる、オーディエンスの期待。それが、目に見えない波みたいなものみなって、あたしの胸をも震わせる。
ゲバラがコントロールノブをいじると、キン、とハウリングが響く。ざわめきがそれに反射するように、少しだけ、大きくなる。
刹那、リンタロウくんのタム回しが、そのざわめきをかき消した。カズくんのスラップが、後を追う。
数小節、リズム隊のセッションが続いた後、リンタロウくんが4ビートでライドを叩く音だけが響きだし、そこに、ゲバラのボーカルが重なった。
低く唸るようなメロディ。
再びタム回し。短いピックスライドから、パワーコード主体のリフが響き出す。
その瞬間、オーディエンスが溜め込んでいた感情が、弾けた。
堰を切ったように、湧き上がる歓声。
その上に、すこしハスキーがかったゲバラの声が覆い被さり、更にそれを跳ね返すように、歓声が膨れ上がる。
音の波に、あたしの感情も溶け出す。
取り残されたフロアの中央から、前へ。
湧き立つオーディエンスを掻き分けるように、あたしは無意識に、ステージに近づいていく。
前へ。そうだ。もっと前へ。
誰かがあたしの中で、あたしに命ずる。あたしの身体は無防備に、それに従う。
前へ。前へ。
オーディエンスの肘が、肩が、身体全体が、あたしにぶつかってくる。
痛みは感じない。きっと、際限なく湧き上がってくるアドレナリンのせいだ。
混沌が、一気にフロアを満たしていく。
その禍々しい渦の中へ、あたしはあたしの精神を委ねる。
前へ。前へ。
いつのまにかあたしは、最前列にいた。
目の前の、迫り上がったステージの上の、ゲバラ。
ゲバラと目が合う。合ったような気がする。
音と熱気と湿気が入り混じるカオス。それが、あたしがあたしであることを忘れさせる。
膝から力みが抜けて、がくりと折れそうになる。
その時だった。
途端に、それまであたしを包んでいたはずの、轟音がぴたりと止む。止んだ気がする。
目の前のゲバラは、変わらずレスポールを掻き鳴らし続けている。でも、エフェクターを通しているはずの音の歪みが消えている。
シールドを刺さずに掻き鳴らす時のような、貧弱な弦の震え。
ゲバラは叫ぶように歌っているはずなのに、そのメロディは柔らかくあたしの耳に吸い込まれていく。
そんなはずはない。
これは、幻聴だ。幻覚だ。
証拠に、視界の端にチラチラ映るオーディエンスのテンションは、上がり切ったままだ。とは言えそこに、何故か現実味を感じない。
何かの膜に覆われたかのような、ぽわりとした世界。
それでもどこか、冴えている感覚もある。
弦の震える一音一音が、くっきりと輪郭を持って、目に見える。
目に見える?
音が?
やっぱりあたしは、どうかしてる。
目を閉じる。
同時にその、ぽわりとした幕が弾ける。
轟音が、甦る。
そして、不協和音。
気づいた時には、レスポールのストラップを外し、ゲバラはそれを、大きく頭上に掲げていた。
そしてそれをそのまま、ステージの床に打ちつける。
無秩序で破壊的なノイズが、フロア中に響く。
オーディエンスが、その想定外の光景に、音に、黙り込んだ。リンタロウくんもカズくんも、演奏を止める。
わずかなノイズだけが響く中途半端な静寂に包まれながら、ステージ上から、ゲバラがあたしを見ている。あたしは、動くことができないでいる。
「足んねえ!」
ゲバラが叫ぶ。その声に反応して、控え気味なざわめきかが、フロアに戻ってくる。
「足んねえんだよ」
今度は独り言のようにそう吐き出して、ゲバラはステージ脇に捌けていった。その頬に、光るものがあるようにも見えた。
想定外のできごとに、ざわめきが、そのボリュームを徐々に増していく。
それに包まれながら、あたしは、ゲバラが姿を消したステージ袖の暗がりを、眺めていることしか出来なかった。
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