#9

 9月も半ばになると、仕事が俄かに忙しくなった。社員登用のプログラムに乗せられて、これまでの仕事に上乗せするような感じで、様々な研修を差し込まれるようになったからだ。

 契約書の読み方、請求プロセス、労務管理、収支レポートの作成、営業のメソッド、その他、諸々。

 様々な情報を、容赦なく次々と詰め込まれる。正直しんどかったけど、不思議と面白さも感じていた。

 社外に対しても社内に対しても、そんなビジネスプロセスの根っこの部分には必ず、駆け引きがあったり、リスクを伴う判断があったり、責任は負うけど権限も与えられたりして、それをあたしは、スリリングに感じた。

 八木さんの言うやりがいってのを見つけたかと言われると、まだ何とも言えない。勤務時間がどっと増えて肉体的にも疲弊しているけど、そのダルさすら、心地よく感じる時がある。人は、こうやって社畜になっていくんだな、なんて、皮肉も感じる。

 ーーー充実、してる?

 例えば寝る前、通勤の電車の中、シャワーを浴びてる時、どこか気負いが抜けたタイミングで、最近よく、そんな自分自身の声が、頭の裏側に響いてくることがある。

 ーーーうん、たぶん。

 あたしは決まって、そう答える。

 目的も目標も、意欲も挑戦もなくて、ただただのっぺりした毎日に、時間の流れる実感もないままどっぷりと浸かっていた5年間と比べれば、今の方がきっと、充実してるんだろう。

 とは言え、充実ってものがホントはどういうものなのか、正直あたしは分かってない。

 だから、うん、とは答えても、たぶん、が必ずついてくる。

 その、たぶん、が鬱陶しくて、でもなぜか、愛おしい。

 

 その日、急な会議に招集されて、会社を出た時には20時を回っていた。

 社屋を出てすぐ、駅に向かう道すがらにあるベンチに、どこか見覚えのある顔がふたつ、並んでいた。

 暗がりでよく見えなかったし、記憶もどこか朧げだったから、そのままやり過ごして通り過ぎようと思ったけど、1人が不意に立ち上がり、歩み寄ってきた。

 相手の思わぬ長身に、あたしは一瞬身構えたけど、その時ふと、記憶と目の前の面影が一致した。

 「リンタロウくん?」

 そう声をかけると、リンタロウくんはこくりと頷く。

 となると、まだベンチにふんぞり返って座っているの坊主頭のシルエットは、多分カズくんってことだ。ゲバラのバンドメンバーのふたり。彼らのライブを見に行った日以来だった。

 「莉奈さんちょっと、時間取れます?」

 街灯に照らされたリンタロウくんの面持ちが、予想外に真剣で、それに気圧されて、反射的にこくりと頷いてしまった。


 「絵里から連絡先聞いてたんなら、メールでもくれればよかったのに」

 居酒屋で2人と向かい合って座り、一杯目のビールが運ばれたタイミングで、あたしは呆れたように、ほんの少し申し訳なさも込めて、そう言った。

 あたしの定時の18時から2時間、あそこでふたりであたしを待っていたと言う。

 「何かメールだと、断られる気がして」

 弱々しく言って、リンタロウくんはちびりと小さく一口、ビールを啜ると、急に慌てて、ああごめんなさい、乾杯、とジョッキを差し出す。苦笑と一緒にあたしが乾杯、と返すと、またちびり、と啜る。お酒の弱いリンタロウくんは、多分酔ってしまわないように、気を使ってる。それくらい、あたしに伝えたい大事なことがあるんだと、悟る。どんな事かはわからないけれど、誰のことかは、容易に想像がついた。

 だから少し、あたしは気が重くなる。

 一方のカズくんは無言で、あたしとリンタロウくんの乾杯には付き合わず、一気にビールを飲み干した。

 ジョッキをテーブルにどんと置く勢いでわかる。カズくんは不機嫌だ。

 「ゲバラの誘い、何で断ったんだ?」

 あたしを見ず、俯いたまま、まるでテーブルに怒鳴りつけるように、カズくんが言う。

 あたしは小さく深呼吸をしてから、答える。

 「あたしには無理だよ」

 あたしの言葉に、カズくんが顔を上げる。

 「何で?」

 棘のある声。

 「たぶんゲバラの、あなたたち3人の期待に、応えられないから」

 あたしはまっすぐ、カズくんを見据える。その言葉に嘘偽りはないから、目線を逸らしちゃいけないと思った。

 カズくんも不貞腐れたふうにあたしを見たまま、近くを通りかかった店員に、もう一杯、と目もくれずにオーダーする。

 「俺はホントは、あんたを引き込むことには反対だったんだ。俺は3人で十分だって、3人で俺たちの音は完成されてるって思ってた。でもゲバラは、すげえあんたにこだわってた。で、あんたたちの大学時代の動画を見せられて、悔しいけど、納得した」

 言いながらカズくんの目から、苛立ちの熱が消えていく。

 「悔しいけどさ、あんた、すげえよ。ゲバラがこだわったのもわかる。俺らの音の上にあんたのギターが乗ったら、プロも夢じゃねえと思った」

 プロ、と言う単語に、あたしの身体がぴくりと反応する。いやな鈍い重みを、耳の奥に感じる。

 店員が、カズくんの二杯目のビールを持ってくる。カズくんはそれをすぐ手に取って、今度は半分まで飲み干して、また乱暴にジョッキをテーブルに置いた。

 「俺は才能を持ってる奴が燻ってんのを見ると、すげームカつく。才能のある奴は、もしちょっとでも、本当にほんのちょっとでも音楽に未練があるなら、凡庸な奴らにやっぱり凡庸なんだと気付かせるために、その才能を曝け出す義務があると思ってる。まあ、これは、俺の持論だけど」

 「ちょっと、暴論だね」

 「聞きたいのは!」

 あたしの言葉にかぶせ気味にそう強く言ってから、ジョッキを手に取り、残った半分を飲み干して、カズくんはまた真っ直ぐにあたしを見る。

 「ほんとにこれっぽっちも、未練はないのか?」

 「うん、ないよ」

 自分でも驚くほどに、平坦で冷淡な響きで、しかも間髪をいれずに、そんな言葉が口をついた。

 カズくんは露骨に悔しそうな顔をして立ち上がると、あたしとリンタロウくんに背を向けた。

 「どこ行くの?カズ」

 驚いたふうに、リンタロウくんが尋ねる。

 「しょんべん」

 背を向けたまま吐き捨てるように言って、カズくんは店の奥に向かっていった。

 その背中を無言で見つめていると、ごめん、と囁くような弱々しいリンタロウくんの声が、耳にするりと入り込んできた。

 「あいつ、すぐ感情的になるから」

 あたしは暗に、大丈夫という意味を込めて、首を横に振る。

 「あいつ、ちょっと焦ってるんだ」

 「焦る?」

 「例のイベントまで1ヶ月ちょっとしかないんだけど、最近ゲバラの様子がおかしいから」

 おかしいって、どんな風に?

 そう聞きたい衝動を、抑えた。

 いけない。これ以上踏み込んじゃ、ダメだ。

 「そうなんだ」

 関心がないふうを装って、そう返す。

 「どうしても、ダメ、なんだよね?」

 か細い超えで、リンタロウくんは尋ねる。

 「うん、ごめん、むり」

 その返答が残酷なくらいに冷めた響きになってしまったことを、あたしは少し後悔する。

 「そっか、そうだよね」

 泣きそうな感じで笑って、リンタロウくんはごくりごくりと2度大きく喉を鳴らしてビールを煽る。

 伝えることは伝えた、というリンタロウくんの意思を、そこから受け取る。

 ーーー充実、してる?

 あの声が、頭の奥で響く。

 ーーーうるさいな。

 あたしは初めて、別の答えを返す。

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