#8
オペレーションブースが並んだコールセンターとは別の、社員さん達のデスクの並ぶ部屋。その一番奥の窓際に、八木さんを見つけた。
ノートPCのモニタを覗き込みながら、誰かと電話で話している八木さんから少し距離を置いて、その電話が終わるのを待った。
あたしに気づいた八木さんは、電話で話しながら、身振りであたしを近くに呼び寄せ、空いていた隣のデスクにかけるように促した。
「ごめんごめん」と、電話を終えるといつものようにあたしに気遣ってから、八木さんは、「どうした?」と、尋ねてくる。
「こないだ、お声がけしてもらった件ですけど」
あたしがそう切り出すと、うん、と力強く頷いて、八木さんは身体ごとあたしに向き直った。
「あたしでよければ、お受けしようと思います」
一瞬驚いたような顔をして、その後すぐに柔らかく笑んで、八木さんはまた、力強く頷く。
「わかった。ありがとう。まだ社員になれると確約できるわけじゃないけど、これから年末にかけて、ウチの本部長とか人事と面談して、年明け2月には、決まると思うから」
にこやかに、嬉しそうに、八木さんはそう言った後、急に表情を引き締めた。
「多分いろいろ、思うところはあるだろうけど、こういうビジネスの環境ってのも、その世界に集中してフォーカスしてれば、やりがいみたいなもの、見つけられると思うから」
何だか意味深なことを言う。あたしは少しだけ興味を惹かれて、聞いてみる。
「ちょっと含みのある言い方ですね」
そのあたしの返しに八木さんは、照れたような、苦々しそうな、微妙な笑みを浮かべる。
「実は俺も蒲田さんと一緒で、バンドマン崩れからこの会社に入社したからさ、まあそれなりに少しは、気持ちがわかると言うか」
意外な八木さんの過去。
「へえ、どんなのやってたんですか?」
「ランシドとか、ラーズ・フレデリクセンとかみたいな」
「どパンク!」
八木さんみたいな論理的で理性的なヒトからは、何だか想像できないジャンルだ。
「モヒカンだったし、危うくハードコア方面にまで足を突っ込みかけた」
「シック・オブ・イット・オールとか?」
「アグノスティック・フロントとか」
「それ知らない」
言い合って、2人でけらけらと笑い合った後、ほんの少しの沈黙を置いてから、遠くを見るような眼差しを携えて、八木さんが続ける。
「泣かず飛ばすよりはちょっといい状況だったから、色々勘違いもしてて、葛藤したんだ。俺はまだできるんじゃないかとか、やり残したことがあるんじゃないかとか。でも結局、まだ当時結婚前だった嫁が妊娠して、決断した」
「音楽をやめる、と」
八木さんは頷き、あたしに向き直る。
「俺の場合、シチュエーションが分かりやすすぎたからね。自分でも驚くくらいにきっぱり開き直れたけど、蒲田さんの表情を見ると、決断とか決意とか、そんなにシンプルじゃなかったのかなと、ちょっと心配になった」
相変わらず、鋭い人だ。
確かにあたしは、全てに納得して、この答えを出したわけじゃない。
いや、納得とかじゃ、ないな。
そもそもあたしには、選択肢なんてなかったんだ。
その夜のグランマは、いつも通りの閑散ぶりで、いつもの一番奥のブースに、いつものようにタバコをふかす絵里がいるだけだった。マスターもゲバラも、時間を持て余すように、カウンターのあっちとこっちで、スマホをいじっていた。
「遅かったね。今日はもう来ないと思った」
目の前に腰掛けるあたしに、絵里はタバコを差し出す。
「残業。ちょっと色々忙しくなってきてさ」
絵里から受け取ったタバコに火をつけると、ビール、とカウンターごしのマスターに告げる。あいよ、と気のない返事と共に、マスターは気だるそうに動き出した。
タバコの煙と一緒に深く息を吸い、少し胸にためてから、大きく吐き出す。それで、決心をつける。
「ゲバラ、あたし今のバイト先に就職する事にした」
あたしの言葉に、一瞬、虚をつかれたようにきょとんとしたゲバラは、すぐに怪訝そうな表情になって、あたしの目を覗き込むような感じで、あたしを見据える。
「つまり、バンドはやらないってこと?」
あたしは黙ったまま、頷きだけを返す。表現出来うる限りに軽い雰囲気の、笑みと一緒に。
絵里が小さく押し殺すように、ため息を吐く。カウンターの向こうのマスターの背中がほんの少しだけ、ぴくりと動く。
しばらくあたしを見据えていたゲバラは、何かを諦めたように苦く笑って、そうか、と小さく呟いた。
その時ちょうどマスターから差し出されたジョッキを受け取り、あたしの前に置く。
「残念。またフラれたか」
フラれた、というフレーズが、あたしの胸に引っかかる。
それを飲み下すように、あたしはビールを煽った。
これで、決着はついた。
うん。決着は着いたんだ。
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