#7
ゲバラの中の世界は、音楽を中心に回っていた。
多分あたしと出会う前からずっと、痛々しいくらいに、音楽以外の何もかもを犠牲にして。
極端に言ってしまえば、食べることも寝ることも、ゲバラにとっては音楽を続けるために仕方なくこなす、面倒な作業、でしかなかった。
もちろんゲバラ本人は、それを犠牲だなんてこれっぽっちも思ってなくて、だからある意味、無自覚に残酷だ。あたしの想いなんてものはゲバラにしてみれば、透明で無形な空気だ。目の前を漂っていることすらも実感できない、空気。そのことがちくりと、ずきりと、鋭くて鈍い何だか矛盾した感覚で、あたしの胸の奥にずっと佇んでいる。大学の頃から、ずっと。
大学4年の秋、ゲバラからの新しいバンドの誘いを断った日の夜、あたしは絵里と、グランマとは別の店で2人で飲んでいた。
グランマに行く気にはなれなかった。ゲバラの顔を、見たくなかった。その夜だけは。
「断ってよかったの?」
一見、沈み込むあたしを慰めるような雰囲気は皆無で、どうでもよさげな気怠い感じで絵里はそう訪ねてくる。けど、その声色は微妙に湿っていた。それが私には分かった。絵里はそういうヤツだ。
「わかんないよ、そんなの」
ため息と一緒に、あたしはそう吐き出す。
3年とちょっと、ゲバラと一緒にやってきたバンドの活動は、音楽的には充実してたと思う。それなりにファンもついたし、敷居が高いと言われてる都内のハコの幾つかから、頻繁に声がかかるようにもなった。
でも、あたし個人的にどうだったかと問われると、良かった、と素直に首を縦に振れない。
あたしはゲバラが好きだった。それはもう、どうしようもなく。
とは言えそんなあたしの想いが、音楽を中心にぐるぐる回るゲバラの世界の中ではきっと、ただの、面倒なこと、になってしまうことは分かってた。だからあたしはゲバラに何も伝えなかった。伝えられなかった。伝えるのが怖かった。それが、つらかった。苦しかった。
だから・・・
「なんかさ、もう疲れちゃったんだ」
気がつけば半ば無意識に、そんな言葉が口をついていた。
「バンドが?それともゲバラが?」
答えづらいことを、絵里はさらりと聞いてくる。絵里にはっきり、あたしのゲバラへの想いを伝えたことはなかったけど、絵里のことだから、気づいてるんだろうな、とは思ってた。
観念して、あたしは口を開く。
「前にさ、ちょうど新宿ロストに初めて出た時に」と、あたしは歌舞伎町の真ん中にある老舗のライブハウスの名を口にする。「あそこでライブできるんだったら、本気でプロを目指すのもアリかな、なんて思ってたんだ。でも、ほら、あたしってさ、意志が弱いとこあるじゃん?何の覚悟もないのに、プロになるとか調子乗っていいのかって、躊躇うところもあってさ」
「あたしは、あんたが就活しないことを選んだ時点で、そういう覚悟、したんだと思ったんだけどね」
ぶっきらぼうに、絵里が言う。でも目だけはほんの僅かに熱と湿り気を携えて、あたしを見据えている。
あたしはそれに、苦笑を返す。
「そんなご立派な理由じゃないよ。それが音楽のことかは自分でもはっきり分からないけど、何かをやり残している気がして、で、就職しちゃうと、もう後戻りできないんじゃないかっていう漠然とした違和感があって、ただそんだけ。ホントに覚悟も何もない、そんないい加減な気持ちだっただけ」
言って絵里を見る。絵里は、薄く笑んだまま、黙って頷く。暗に、全部吐き出しちゃえ、という絵里の心の声が伝わる。
こくりとあたしは、頷きを返す。
「その時のロストのライブの後にさ、ゲバラに聞いたの。ゲバラは、プロになる覚悟ってあるかって。厳しい世界だし、音楽と心中する覚悟はあるかって」
また、絵里を見る。多分あたしは、縋るような目をしてる。絵里はそれを受け止めるように、ゆっくりと、何度か縦に首を振る。
その絵里の仕草に、なぜか救われた気がして、身体のずっと奥の方から、熱みたいなものがこみ上げてきて、胸に溜まっていく。
「別に覚悟とかじゃないって、俺にとって当たり前のことだって、言うんだよね」
その時のゲバラの言葉が、その時の風景ごと、鮮明に脳裏に蘇る。
ーーー覚悟って言うか、音楽って俺にとって、息を吸うみたいに当たり前のことでさ。別にすげえ売れたいなんて思ってるわけじゃなくて、ただ音楽だけに集中できる環境をプロって言うなら、そうなりたいだけだよ。
「聞いて後悔した。ああもう、次元が違うんだなって。コイツホンモノだって。結局さ、音楽と心中する覚悟とか言ってる時点で、ゲバラみたいなホンモノと、一緒にやる資格なんてないんだよ、きっと」
言い放つ言葉の語尾が、震える。
「あたしが好きだって気持ちが伝わらなくても、音楽でだけは繋がってられると思ってたんだ。でも、薄々気づいてはいたんだけどさ、ここまで決定的に姿勢が違うんだって思い知らされて、結局は、半端なあたしが足引っ張ってんじゃないかって。あたしがいない方が、ゲバラはもっとやりたいようにやれるんじゃないかって。それだけはヤじゃん。好きな男の障害になってるなんて、そんなのヤじゃん」
胸に溜まった熱が、どん、と鈍く弾けたかと思うと、涙になって溢れ出した。
「バンドがなくなった時、正直あたし、何かから解放されたみたいに気持ちが楽になったんだよね。でもさ、なんだよそれ、なんだよあたしって。好きって、その程度だったんじゃんって」
4人がけのテーブルの向かいに座ってた絵里が、涙でぼやけた視界の向こうで、すっと立ち上がる。そのままあたしの横に腰掛けて、無言であたしの頭を、ぐっと胸に引き寄せた。
「ねえ、絵里、何でだろ。そんな程度の好きなんだったらさ、何でなんだろ、何でこんなに苦しいんだろ」
思わず嗚咽が漏れる。
抱きしめながら何度もあたしの頭を撫でる絵里の手の感触だけが、その時のあたしの、唯一の救いだった。
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