#5

 分厚いドアを開けると、鉄分を含んで尖って湿った、どこか懐かしい空気が顔にまとわりついてくる。あたしはそれを身体に染み込ませるように深く息を吸ってから、地下室に足を踏み入れた。

 吉祥寺バズクラウド。

 駅前の商店街を抜けた大通り沿いにあるそのライブハウスは、学生の頃にあたしが入り浸っていたハコだ。

 当時はラウド系のバンドを中心にブッキングしてたハコだったから、カッコばかりイカついヤロウどもで溢れてたけど、ギャラリーに妙に女の子が多いところを見ると、そんなこだわりは、どうやらかなぐり捨てたらしい。

 実際に聴いてみなきゃわからないけど、店の外に立てかけられた、メニューボードに並んだやけにキラキラしたバンド名を見るに、多分今日のメンツは、いわゆる繊細で、それなりにテクニカルでキャッチーな、今時のラインナップが揃っていそうで、あたしが愛した、ガサツで独りよがりで無秩序な轟音を浴びる事は叶わないだろうと、覚悟した。そう覚悟しなければならない事が、少し寂しかった。

 開演前のざわついたギャラリーの中に、絵里を見つけた。そのすぐ傍に、グランマのマスターが立ってることに驚きつつ、あたしは2人に近寄る。

 「おー、莉奈」

 あたしを見つけた絵里が、既にとろんとデキあがった目で手に持ったグラスを掲げる。学生の時からの悪癖だ。誰かのライブを見るときは、しこたま飲んでからハコにやってくる。

 「マスター、お店は大丈夫なの?」

 そんな絵里にいつも通りの冷ややかな一瞥を投げてから、土曜の夜に何故かここにいるマスターに問いかける。

 「どうせガキどもは夏休みで店こないし、今日はアーセナルの試合もないし」

 マスターも、絵里に負けないトロンとした目であたしにニヤけ顔を向ける。ああ、これはここに来る前に絵里に付き合わされたな、と勘繰る。

 「飲食店経営者失格だわ、それ」

 呆れるように言いながら、あたしはまだ誰も立っていないステージに目線を投げた。

 右にマーシャル、左にアンペグのデカいキャビネット。パールのロゴが刻印されたバスドラを中心に、ステージの最奥で静かに重く佇むドラムセット。足元のモニタスピーカーと、天井縁に並んだ安っぽい照明。

 薄暗闇みの中でぼんやり浮かんで見えるありふれたイクイップメントの落とす影が、何だか胸に、じんと染みてくる。

 それは懐かしさなのか、それとも執着、なのか。

 途端に、八木さんの顔が瞳の裏側に朧げな残像になって浮かぶ。

 ーーー今は音楽活動って、してないんだよね?

 鼓膜のずっと奥の方で、八木さんの声にならない声が、ぼわんと滲んだ輪郭で響く。

 ーーーなんなんだ、これは。

 あたしは亡霊みたいに纏わりつく錯覚と幻聴を振り切るように、小さく首を振る。

 「どした?具合でも悪いの?」

 あたしのそんな様子を不審に思った絵里が、声をかけてくる。

 大丈夫、と小さく返した時、照明が消えた。

 ざわり、と小さな囁きが、あちこちから上がる。

 「ゲバラたちは、3番目」

 絵里が耳元で言って、暗闇の中でにやり、と笑む。


 『何だかちょっとむしゃくしゃするから、今日グランマ付き合って』

 八木さんから例の打診を受けた日、胸に突っかかるモヤモヤが晴れなくて、よく眠れなくて、だからあたしは翌朝、絵里にそうメールした。

 相談ってほど、かしこまったつもりではなかったけど、誰かと話したいっていう衝動を、抑えられなかった。

 『なら、週末までそのむしゃくしゃを溜めといて。ゲバラのライブ行こう』

 意外な返信が、絵里から返ってきた。

 その文章を読み返して、どきりと脈打つ鼓動が、更にあたしのむしゃくしゃを膨らませた。


 案の定、タバコの煙が充満した地下の空間には似つかわしくない、愛だの恋だのをポップに連呼するバンドが2つ、演奏を終えた。直後のブレイクで、ハコの空気が変わっていくのがわかる。

 次はゲバラの出番だ。明らかに、妙にきらきらして甘い匂いを放つフロアの女子たちに、期待されていない。

 これまでに演奏した2組の音と、ゲバラが、あるいはあたしが好きな音には、どう足掻いても埋められないギャップがある。逆も然りだ。大半のオーディエンスも多分、それを知っている。あるいは、予感してる。ゲバラたちが舞台袖から姿を見せても、のっぺりと平坦なまま変わらないフロアのざわめきが、そのことを証明していた。

 「完全にアウェーだね」

 絵里が耳元で囁く。

 「なんか眠くなってきたわ」

 グランマのマスターが憚らず大口を開けて、あくびを漏らす。

 あたしは2人には答えず、じっとステージに目を向ける。

 現れたのは3人。スリーピース。良くも悪くも、メンバー各々の音が剥き出しになる構成。

 もしかしたら大学時代の顔見知りを、とも思ったけど、ゲバラ以外の2人に、見覚えは無かった。

 痩身で長身で長髪の、やたらと縦に細っこい印象の男がドラムセットの前に座り、背が低くて金髪坊主頭の筋肉質の男は、その小さい身体にはアンバランスな、デカいミュージックマンをぶら下げた。

 相変わらずのっぺりとしたざわめきに包まれているフロアを見渡し、ゲバラが深く息を吸い込む。その瞬間だった。

 轟音。

 ファズを思い切り振り切った状態でのピックスクラッチ。

 しかもいやらしいくらいにゆっくりと、ネックを這わす。必然的に、ノイズは倍々に膨れ上がっていく。

 普段は綺麗に整えられた音を聴いているであろうオーディエンスが、聴き慣れないノイズに押し黙る。それでも轟音は容赦なく、その上に覆い被さっていく。

 ファズの余韻が強く残るうちに、今度は誰もがどこかで幾度か聴いたことがあるはずの、メロディラインが響き出す。

 君が代。

 なるほど。ゲバラの意図すろところが何となくわかったあたしは、思わずニヤける。

 トリビュートだ。

 ジミヘンの“The Star Spangled Banner” のライブパフォーマンス。それを君が代でやる。

 ーーーいいじゃん。

 身体の内側で、ふつふつとアドレナリンが湧く。

 メロディラインの最後の一音に重ねて、今度はチョッパーの飛び跳ねる低音が鳴り出す。タイトなドラム音が後を追う。

 リズム隊のオープニングセッション。

 巧い。あたしは思わず息を飲む。

 やがてファズの余韻が消える。

 ファンキッシュなリズムだけが、フロアを満たす。

 そして、ギターの上音なしでそこに絡み出す、ゲバラのボーカル。

 この声だ。

 この声が、あたしは好きだった。

 少しハスキーがかっているのに湿り気を感じさせる、不思議な響き。

 あたしは無意識のうちに、右手を突き上げていた。

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