#4

 2、3年前までは、二日酔いだと唸る職場のおっさん達の気持ちなんて、徹夜で飲み明かしても寝不足になるくらいだったあたしには、これっぽっちも分からなかった。

 が、去年くらいからか、あたしはその苦しみを痛感している。まさに今もそうだ。アラサーの領域に片足を突っ込んだ瞬間に、これだ。ニンゲンの身体の老いは、実は徐々になんて襲ってこない。ある時突然に、だ。

 月曜の昼休み。いつものようにラーメンだの牛丼だの、揚げ物をふんだんに乗せた讃岐うどんだのを食べる気にはなれず、休憩室の片隅でコンビニのサラダを、トマトジュースと共に胃の中に流し込む。それで気分は幾らか紛れた。

 土曜にゲバラがバンドを始めた事を知って、それをずっとあたしに隠していた事を問い詰めようと、日曜も連日で、バー・グランマを訪れた。

 でも、そんな日に限って店は大繁盛で、接客に追われるゲバラをなかなか捕まえられず、1時過ぎまでヤケ酒を続けた挙句に、ヤツを問い詰められないままに店を出た。結果、この二日酔いという体たらくだ。

 ふと、思う。

 ーーーちょっと待て、あたし。ゲバラを問い詰める?ゲバラの、何を?

 昨日はバンドのことを隠されてたと知って、衝動的にイラついて、深い考えもなく、その感情にただ乗っかってグランマに駆け込んだけれど、今こうして、うずくこめかみを指でぐりぐりとマッサージしていると、冷静なあたしの思考が、頭のてっぺんあたりから、べろりと頭皮を剥くような感覚と一緒に、顔を出す。

 ゲバラはあたしの元バンド仲間で、バンドが解散してからは、そのバンドと言う言葉を省いた、いわゆる腐れ縁的なただの『仲間』ってやつで、それ以上の存在じゃない。

 だとすると、そんなあたしにゲバラがゲバラの何もかもを伝える義務みたいなものが、果たしてあるんだろうか。ううん、それは、あくまでゲバラの意思に依存するもので、義務なんてものじゃない。

 冷静にそう思い至ると、急に昨日の自分の言動が、自分で恥ずかしくなってきた。

 その恥ずかしさに頬が火照る感じがして、掌でぽんぽんと軽く頬を叩きながら伏せていた目線を上げる。

 その時初めて、テーブルを挟んだすぐ向こう側に立つ人影に気付き、気配を全く感じられていなかったあたしは、意表を突かれて思わず、うわあ、と声を上げる。

 相手もあたしのリアクションが思いの外大きかったからなのか、うぉ、と同じように返す。

 八木さんだった。

 この職場のマネージャーで、あたしみたいなバイトリーダー的な連中を束ねる社員さんたちを更に束ねる、言ってみれば上司の上司、みたいな人。多分40手前くらいなんだろうけど、肌艶はつるりとしていて、とてもおじさんとは呼べない。

 「ごめんごめん。脅かすつもりはなかったんだけど、俯いて何か呟いてたから声かけづらくて」

 「え?声出てました?」

 「何言ってるかまでは聞き取れなかったけど」

 八木さんのその言葉に、さっきの火照りの数倍の熱が、あたしの頬に溜まってく。そんなあたしを見て、八木さんは困惑と申し訳なさとが入り混じった、渋い表情を浮かべる。

 「すみません、気にしないで下さい」と、両手をぶんぶん胸の前で振って、短く小さな深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、聞いた。「何か用事ですか?」

 「ちょっと確認しておきたかったんだけど、蒲田さんてさ、今は音楽活動って、してないんだよね?」

 このタイミングで、なんだかすごい暗示的な質問をぶっ込んでくるな、と、頭の奥の方でゲバラを浮かび上がらせながら思う。

 その質問にどんな意図があるのか全く読めなくて、すぐに返答するのもなんだか癪だったから、質問に質問を返す。コールセンターでは、一番やっちゃいけないことだと、自覚しながら。

 「あたしが音楽やってたなんて、誰に聞いたんですか?」

 「やってた、ってことは今はやってない、でいい?」

 普段からデキる人だとは思っていたけど、こう言う鋭さをダイレクトに向けられると、いろんなことを見透かされているようで、ちょっと怖くなる。質問に質問、に対して、更に質問を返すエグさも。

 「それを前提にちょっと話したい事があって。今日14時から30分くらい時間取れるかな?」

 丁度、浅井くんとシフトが被る時間帯だった。この人は多分、その辺りもリサーチした上で聞いてきている。

 「大丈夫てす」

 そう答えると、思い出したように、八木さんが言う。

 「そうそう、さっきの誰に聞いたかって質問。浅井くんから」

 またあいつか、と音には出さずにあたしは舌打つ。


 会議室に入ると、八木さんは携帯で電話をしていた。電話の向こうの相手と話しながら、右手でごめんとジェスチャーをして、座るようにとやはり手振りで促した。

 あたしは、八木さんの対面に腰掛ける。8人掛けのテーブル。2人で話すには広すぎる。なんだかアンバランスだ。とか、どうでもいいことを思う。

 「申し訳ない。呼び出しといて」

 電話を切って、八木さんが言う。

 八木さんは無駄を嫌う人だ。けど、こう言う気遣いは欠かさない。本当の意味で、何が無駄で何が無駄じゃないか、わかってる。あたしの中で仕事のデキる男って、こういう人だ。あたしは小さくお辞儀して、だいじょうぶです、と暗に伝える。

 「話したいのは端的に言うと、蒲田さん、ウチの正規の社員にならない?ってこと」

 無駄を嫌う八木さんはずばりと、核心を語る。あたしはすぐには彼の意図を読み取れず、はあ、と薄ぼんやりした相槌を返した。

 「蒲田さんが将来をどう考えてるかはわからないけど、会社は、てか俺は蒲田さんを高く評価してて、蒲田さんたちみたいなアルバイトを、今度はケアする側にまわって欲しいと思ってるんだけど、どうだろう」

 なるほど。あたしは悟る。

 昼休みにわざわざ休憩室のあたしを探し出して、音楽活動云々を聞いてきたのは、正式にこのオファーを打診するべきか、判断するためだ。

 この業界で働くフリーターは、音楽だの芝居だので成功する事を夢見る輩が多い。その大半は自身の才能の無さを思い知って、30代を前に現実を見始める。思えばあたしも、そんな年代だ。そして八木さんも、あたしがまさにそのタイミングだと読んだのだろう。

 現実を、見る。

 そのフレーズを何だか素直に飲み込めず、胸が鈍く疼く。

 でもその違和感の正体は掴めない。

 ーーーまだ音楽を諦めきれない?いやいや、だったら何でまたジャガーをクローゼットに押し込んで、どっぷりフリーター稼業に浸かってんだよ、あたし。

 得体の知れない、胸のずっと奥の方で蠢いているこの違和感に、何だかあたしはイラついて、無意識に溜息を漏らす。

 「もしかして今の打診って、全然考慮できる感じじゃない?」

 あたしのその無意識のリアクションに、八木さんが不安げに、覗き込むようにあたしの顔を見る。あたしは慌てて、小刻みに首を横に振る。

 「いやいや、そういう訳じゃなくて、何だか急だったから混乱しちゃって」

 慌てて、少し噛み気味に返す。

 八木さんは穏やかに笑って、「来月、9月中に答えをくれればいいから、じっくり考えて」と諭すように言う。

 その笑顔は罪だよな、と八木さんの左手薬指の指輪を憎たらしく睨みながら、あたしは胸の中で毒づいた。

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