#3

 学生の頃からの行きつけの店、ゲバラのバイト先でもあるバー・グランマの店内は、相変わらずの換気の悪さで、その夜もやっぱり、タバコの煙で店中に白い靄がかかっていた。

 とは言ってもその原因は、店の一番奥のボックスシートに座って、マスターに貰った他の客の忘れ物のクールをぶかぶかと吹かしてた、あたしと絵里にあったんだけど。

 客はあたしたち二人だけ。土曜の夜なのに、だらりとした空気が店の中を漂っている。

 「で、研修からは解放されたんでしょ、その大西さんの」

 殆どフィルターまで吸い尽くしたタバコをもみ消し、ほんの少し残っていたモスコミュールを飲み干して、興味があるのかないのか、緩みきった声で絵里はそう聞いてきた。

 「研修は終わったんだけどさ、なんか妙に懐かれてる感がするんだよね」

 あたしも絵里に習って、気だるく返す。

 ふーん、と絵里は、やっぱり興味は無いんだと確信させるような曖昧な相槌を返すと、カウンターの向こうでケーブルテレビのサッカー中継を見ていたマスターに、もういっぱい、と張りのない声で追加のモスコミュールをオーダーした。

 昔から年齢不詳で、歳を訪ねても『永遠の二十七歳』とかサムい答えしか返さないグランマのマスターは、絵里のオーダーに返事をせず、一瞥もくれず、視線はカウンター脇に置かれた20インチのしょぼい液晶テレビへ向けたままで、だらだらと立ち上がった。

 土曜の夜に、こんだけ無気力に飽和された飲み屋も珍しいもんだと、半ば呆れながら、あたしはうつろなまなざしでマスターを眺める。すぐ傍にある、あたしたちの母校の大学の連中をメインに相手にしてる店だから、夏休み真っ只中のこの時期に暇なのは、まあ、仕方ないことなんだろうけど。

 特にここ最近みたいに、あたしにも絵里にも週末を一緒に過ごす相手のいない期間は、学生の頃からずっと、この店で二人、暇さえあればぐだぐだと飲む習慣が続いている。

 週末に、一緒に過ごす相手がいない。

 嫌な響きだ。

 寄り添ったりじゃれあったり、時には言い争って、引っ込みがつかなくなって距離を置いて、でもいつのまにか、どちらともなく、また歩みあって寄り添う。そういう相手が、もう随分長い間、あたしにはいない。

 寂しい。それはそうだ。

 だから、土曜の夜に独りで部屋にこもっているのがイヤで、見飽きた絵里の顔でもいいから人との関わってたくて、こうやってグランマへそそくさと足を運んでいる。

 ただ、それでもあたしは、闇雲にオトコが欲しい、と言うわけではなさそうだ。

 高校生の時の、いつでも誰かを好きでいなければならない、というわけの判らないバカげた義務感みたいなものとか、大学へ入学して東京へ出てきたばかりの時の恐怖にも似た孤独感を紛らわせるために、誰か寄り添う相手を探さなければ、みたいな、強迫観念的な衝動も、今じゃもう、これっぽちも湧いてこない。

 ―――湧いてはこないんだけどさ、この虚しさって、いったい何なんだろう。

 その問いかけに対する答えは、どこをどう探してみても出てこなくて、だから、行き詰ったあたしの思考は、タバコの煙と一緒に吐き出される溜息で、いつも誤魔化されてしまう。

 「なに?そんなにウザいヒトなの?大西さんて」

 口元に笑みを浮かべながら、絵里が言う。

 からかうような、見下すような、それでいて柔らかく包み込もうとする優しさを含ませた、どこか矛盾した絵里独特の不思議な笑み。

 大学時代から、あたしはこの掴みどころの無い絵里の笑みが大好きだった。安っぽいテレビドラマのワンシーンを引っ張り出してきたような、芝居じみた共感や同情を目いっぱい含ませた言葉や表情なんかとは、比べられないくらい、リアルにあたしの胸に染みてくる。

 「それは別にそんなに深刻なことじゃないんだけどさ、いや、それもちょっとあるかもしんないけど、もっとさ、もっとこう、いまのあたしって根本的な何かが欠けてしまっていることが、虚しいと言うか何というか」

 「なんだかんだカッコつけて、オトコでしょ?つまり」

 「うーん、限りなく正解に近い気もするけど、違う気もする」

 「何それ。ワケわかんない」

 切り捨てるように絵里は言うけど、あたしに向けた笑みは深くなる。

 どこかのバカが、『友情』なんて胡散臭いことを平気で声高に口にする、このくだらない世の中で、屁理屈も何も寄せ付けない絵里のこの笑みは、多分世界で一番、あたしを和ませてくれる。それくらい、皮肉っぽい歪みを含んでいるからこその、嘘が無い笑み。

 絵里は、昔からどこか不思議な人だった。

 本当の本心が見えそうで見えないずるさはあったけど、でも、何だか頼りたくなる強さみたいなものがあった。

 アイデンティティとかいうとむず痒いし、信念とかいうと堅苦しい。けど、とにかく、背筋に何かがびっと通っていて、ぶれない強さを、昔から絵里は持っていた。だから、普段は興味なさげに人の話を聞いてるくせに、時々ぽつりと漏らす確信めいた一言に、目を覚まされるようなことが何度もあった。

 そしてゲバラにもどこか、似た雰囲気があった。

 ふと気付き、時計を見る。20時を回っている。

 いつもなら、バイトを掛け持つゲバラが出勤してくるタイミングだが、店のドアはあたし達が来てからずっと、閉じられたままだ。

 テレビの中のサッカーの試合に心を惹かれたままのマスターが、無言で絵里のモスコミュールをテーブルに置く。あたしはそんなマスターの目線をテレビから引き剥がすように、問いかけた。

 「ねえマスター、今日はゲバラ休み?」

 マスターはそれでもテレビにまなざしを縛り付けたまま、ああ、と気の無い生返事を返してきた。

 「今日あいつ、ライブだよ」

 絵里が横から割ってはいる。

 「え?誰の見に行ってんの?」

 「見に行ってんじゃなくて、演るほう」

 知らなかった。思わず、目を見開く。

 「ずっとメンバーは探してたんだよ。春ごろにやっとメンツが揃ったって、最近までは曲を書き溜めてた」

 あたしは、動揺している自分に気付く。でも、何に動揺しているのかが判らない。判らないから、絵里に感ずかれないように平静を装って、言った。

 「懲りないね、あいつも。もう音楽は辞めたかと思ってたのに」

 それでも動揺が、ほんの少し語尾を振るわせる。何なんだ?釈然としないこの感情は。

 「基本的にバカだからさ、アイツ」

 ははっ、と乾いた笑い声を上げながら、絵里が言う。

 「絵里は前から知ってたの?教えてくれても良かったじゃん」

 無理矢理、軽い調子であたしは返した。

 ハブにされた感じがして、教えてくれなかった絵里に少し苛ついて、けど、何だかそんな自分がみっともなくも思えて、感情は押し殺した。押し殺せた、と思う。

 「うーん、ちゃんとした形で活動始めるまでは、誰にも言うなって言われてたんだよね。今日はもうライブ本番だからさ、言っちゃってもイイかなって」

 「なんだよ、もう。知ってたら今日、冷やかしに言ったのにさ」

 軽い感じで、ふてくされた態度を取ってみせる。でも内心は、なんだかどぎまぎしていた。

 やっぱり何かが、胸につっかえてる。

 音楽を再開したゲバラに嫉妬してるのかな、なんて想いが一瞬脳裏を過ぎり、でも、いやいやまさか、とすぐに否定する。

 何気なく天井を仰ぐと、そこに貼り付けられた、ありふれたチェ・ゲバラの肖像がプリントされたフラッグが視界に飛び込んでくる。

 どこか猿人じみたその顔と、あたしたちの仲間であるところのゲバラとの面影とが重なって、何故だか少し、切なくなった。

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