犬嫌いの男

@me262

第1話

 俺は犬が嫌いだ。はるかな昔、食い扶持を得るために自ら首輪に繋がれることを望み、永遠に自由を棄てたあいつらが嫌いだ。向こうも俺を嫌っているらしく、昔からどこへ行ってもあいつらに吠えかけられる。そのせいで犬を見るたびに距離を取って通り過ぎるようになった。

 もう何回目かも覚えていない引っ越し先のアパートで荷解きが終わり、俺は探検気分で近所を散策していた。

 新月の晩で遠景の山々がかろうじて見える。貧弱な街灯しかない狭い道の前方から黒い影が近づいてくる。どちらも大柄な男と犬だ。犬種はボクサーだろうか。俺はいつものように道の端に寄り、息をひそめて下を向いて通り過ぎようとした。だが、犬のほうが突然吠えながら俺に駆け寄ってきた。俺は咄嗟に逃げようとしたが間に合わず、右足の脛を噛まれた。しまった!

「痛っ、痛い!」

 俺が苦痛の叫びを上げると犬は耳を後ろに下げて飼い主の男の傍に戻った。男は最初驚いた様子を見せたが、次に悪びれもせずに怒鳴り散らしてきた。

「おい、お前が変な素振りをするから犬が怯えて噛んだんだぞ!こっちは悪くないからな!」

 言いがかりだ。もちろん俺はそんなことはしていない。ただ下を向いて歩いていただけだ。

 街灯に照らされた相手の男はがっしりした体格をダボダボの白いジャージに包み、短く刈り上げた茶髪に日焼けした顔にはいわゆるお洒落髭を短く生やしている。どう見てもワルだ。一方俺は無作法に伸ばした黒髪に蒼白い顔、安っぽいシャツとジーパン姿の痩蛙のような風体。そんな俺を弱者と判断した男は明らかに威嚇することでこの場を逃れようとしていた。

 俺は何か言おうとしたが、夜空を見上げて口をつぐんだ。駄目だ。今は駄目だ。

 一方相手の男はいかにも恫喝するような荒っぽい口調で俺にまくし立てている。

「カネなんか払わねえぞ!文句があるなら裁判でもやってみろ!だがな、やっても無駄だぞ、俺には弁護士の知り合いが沢山いるんだ!」

「狂犬病のワクチンは打ったのか?」

 俺はこれだけを言うことにした。男は虚を突かれて一瞬黙り込んだがすぐに大声で怒鳴り返した。

「打ってるよ、当たり前だろ!」

 嘘だ。男の声の調子と僅かながらの動揺を俺は見逃さなかった。

「今からでも遅くない。狂犬病のワクチンを打つんだ」

 俺の言葉の意味を男は理解できずに困惑顔をした。まあ、そうだろう。そして、それを覆い隠すために更なる怒りの表情を無理やり作った。

「はあ?何言ってんだてめえ!打ってるっつってんだろ!」

「もう一度言うぞ、その犬に狂犬病のワクチンを打つんだ」

「てめえ、頭おかしいのか!」

 男は舌打ちをして犬と共に足早にその場を去っていった。連絡先は言わずに。これで有耶無耶にするつもりだ。俺はため息を吐いて二つの影を見送り、右足を引きずってアパートに戻った。

 翌日は痛みで体が動かなかったが、その次の日から俺は周囲を調べ回って例の男の居場所を突き止めた。この辺で一番大きな家で高そうな外車が何台も停まっている。近所の住民たちが言うには数年前にどこかからやってきて家を建てたが、付き合いは皆無で何をやっているかは皆目わからないという。時折ガラの悪い連中が出入りしていて嫌な感じらしい。

 ただ、飼っている犬がトラブルを起こしたことはない。

 相手のことは大体わかった。俺を噛んだ犬はたちが悪いわけではないらしい。このまま何も起こらなければ俺も黙って引き下がろうと思った。


 あの件から二週間が過ぎ、俺は近所の人から例の犬が狂犬病で死んだことを知った。

 ああ、だから忠告したのに!あの男はそれを無視したのだ!

 俺の体内には狂犬病のウイルスがある。他にもジステンバー、マラリア、ライム病、正体不明の寄生虫など、およそ野生動物が持っているすべての雑菌を俺は持っている。先日俺を噛んだ犬はそういった感染症に罹患してしまったのだ。あの時点でワクチンを打っていれば、こんなことにはならなかったのに!

 こんな状態の俺自身が生きているのは俺だけが特別だからだ。

 俺は死なない。ナイフで刺されても銃で撃たれても、爆弾で吹き飛ばされても死ぬことはなかった。そうやって何百年も生きてきたのだ。

 ただし、新月の日だけは体力が極端に低下して人並みの生命力になってしまう。流石にこの時は無茶はできない。犬に噛まれた晩に何もしなかったのはそのためだ。

 しかし、今は満月の夜だ。俺の体力生命力は極限に達している。やせ細った俺の肉体は鋼のような筋肉が二倍以上に膨れ上がって精悍な姿に変貌した。この時の俺は体中が野生の本能に支配されて、この上もなく好戦的だ。これまでは山奥で熊を相手に喧嘩を売って暴力の衝動を発散してきた。しかし、あまりやり過ぎて山の中に熊の死骸だらけになり不気味な噂が立つことがあったので、その度に住処を変えてきた。この地に来たのも新たな相手を求めてのことだ。

 しかし、今回は熊と取っ組み合いをすることはやめた。

 俺は死んだあの犬の弔い合戦をしてやることに決めた。

 俺は犬を嫌っているが、憎んではいない。むしろ憐れみすら抱いている。奴らの捧げる命がけの愛情や忠誠心の百分の一も、飼い主の人間は犬たちに返していない。飼い犬のために命を投げ出す人間を俺は見たことがない。死んだ犬も俺から発散される獣の気配を感じ取って主人を守るために噛み付いたのだろう。新月でなければ難なく躱せたのだが。

 薄情者の飼い主の居場所は匂いでわかる。例の大きな家で仲間たちと一緒に酒を飲んでいる。ついでにドラッグの匂いもする。こいつは自分を守ろうとした飼い犬が死んだのにラリっていやがるのだ。

 少しばかり思い知らせてやろう。取り巻きの奴らと共に、あの犬が味わった痛みや苦しみのほんの一部でも教えてやろう。なあに、殺しはしない。運が良ければ一年位で目を覚ますさ。

 高揚した俺はアパートの窓を大きく開け放つと満点の星空の中央に浮かぶ金色の満月に向かって大きく遠吠えをした。肉食獣の牙のような巨大な犬歯が月光を浴びて凶暴に煌めいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

犬嫌いの男 @me262

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ