第9話:ああっ!メアリのお股がもじもじしてる!
「ふむ……ちゃんとトイレに行ってますね」
茶道部部室のドアから顔を出し、一矢を監視していた菜々羽。彼がトイレに入ったことを確認し、小さく頷いた。
「一矢の事だからあのまま逃げるんじゃないかと思いましたが、そうではないようで安心しました」
自分が裏切った事は完全に棚に上げていた。
「あ、じゃあワタシもトイレ行ってくるー」
「行ってらっしゃーい。あ、ついて行こうか?」
「いや、大丈夫……」
ニヤニヤしながら詰め寄ってきた大前を手で制し、メアリも部室から出て行った。
「さて、祠堂さん」
部室にいるのが女子3人だけになったところで、紗月が切り出す。
「何ですか……ひっ!?」
菜々羽の喉がヒュッ、と音を出す。紗月の目から黒いオーラが溢れ出していたからだ。
「この私の前で、やれ一矢君の師範だ、一緒にお茶するだ、好き勝手……」
「お、おおおお待ちください!わたわたわたしはただ、東海林さんから一矢を守ろうと思っただけで!」
「自分が一矢君と一緒にいることを正当化しようと?やっぱり泥棒猫は粛清しなきゃ……」
紗月の指がグニャグニャと動き出す。しかも、先ほどより高速。
「そ、それはなし!それはなしです!」
“くすぐりの刑”の恐ろしさを思い出し、菜々羽は両手で自分の脇を守る。第三者から見たら滑稽に見えるが、笑いすぎて呼吸困難になったりするので、受刑者にとって“くすぐりの刑”は本気の刑罰なのだ。
「っていうか紗月、あの人はどうなんですか!あの人こそ、“くすぐりの刑”を受けるべきでしょう!」
「あの人?」
「東海林さんです!」
メアリが一矢と仲良くしている姿を見せられ、菜々羽は無性に苛立っていた。そして、メアリに対して何もしない紗月に疑問を感じていた。入学式の日にロケランを口にねじ込まれた経験から、紗月が初対面だろうと一矢にちょっかいを出す者に容赦が無い事を、菜々羽は身をもって知っている。
ついでに、紗月の注意を自分からメアリに逸らせるので、くすぐりの刑から逃れられるかもしれない。そういう算段があった。
「何が?」
しかし、紗月はキョトンとしていた。
「まだ会って1時間も経っていないのに、その、抱き着いたり、一緒に写真を撮ったり……幼馴染で姉の紗月は何も思わないんですか?」
「幼馴染であり恋人であり妻であり妹であり姉であり母だから。4つ足りない」
「そんな細かい事はいいんです!とにかく、東海林さんに何か思うところは無いんですか!?あるでしょう!?」
菜々羽は両手を広げ、紗月に詰め寄る。
「いや、別に無い」
「えぇっ!?」
予想外の反応に驚く菜々羽。
「どうしたんですか紗月!?もしかして熱でもあるんじゃ……」
「無い無い」
「じゃあどうして……」
「だって東海林“君”は……」
「……え?」
菜々羽が固まる。そして、今紗月が言った事を繰り返す。
「……東海林“君”?」
――――――――――
「……はあ」
男子トイレに入り、一矢は深く息を吐いた。自分を取り囲む脅威から守られたような、そんな安堵感が彼を包んでいた。
「祠堂、部室のドアから見てたよな……」
トイレまでの道中、嫌な予感がして振り返ると、菜々羽がドアから顔を出してこちらを監視していた。逃げないように見張っていたのだろう。
「ま!トイレから逃げるんだけどな!!」
一矢の考えていた策とは、これだった。その昔、勝負に負けた麻雀打ちはお金を払わないためにトイレの窓から逃げていたらしい。明日も授業はあるのでどうせ登校しないといけないし、ダクトから部屋に侵入される恐れもあるが、とにかく今は時間が必要だ。
予定通り、トイレの突き当りには窓があった。ちょうど、頭1つ分高い位置にある。以前、光森に追われていた時にトイレの窓から登下校していたため、人が通れるくらいの大きさがある事も知っている。
「よし……」
一矢は腕を伸ばしてカギを開錠し、窓を開ける。芳香剤の匂いがするトイレに、穏やかな新緑の空気が入り込んだ。空の色も青々としている。こんな良い天気の日に自分は何をやっているのだろう、と少し悲しくなった。
窓の縁に手を掛け、よじ登る。あとはここから出ればいいだけ……
「うわぁーっ!!」
しかし、そうは問屋が卸さない。窓の外の景色を見た一矢は、恐怖のあまり絶叫した。
何故なら、そのトイレは3階にあったからである。地上は遥か遠く、誤って落ちようものなら普通に死ぬ危険性があった。
急いで窓の縁から降りる。この一瞬で、一矢の心臓はバクバクと強く速く拍動していた。
「くそっ、万策尽きてしまった……!」
一矢はトイレの壁を殴った。焦りから、自分がいる階を忘れるというミスを犯してしまった。もう策は残っていない。3人を納得させる説得術も無い。覚悟を決めて、3人の中から1人を選ぶしかない。しかし、1人を選べば残り2人から必ず制裁がある。くすぐりの刑か、乳没か、タックルか、シンプルに悲しい顔をされるか……全てが憂鬱だった。
「はあ……一旦おしっこしよ……」
気を静めるために、小便器の前に立ち、ひとまず用を足すことにした。
「(やっぱり、あの2人と一緒に来たのは間違いだったなあ……)」
癒しを求めて茶道部に来たが、ほとんど癒しにならなかった。
しかしメアリに会えたのは僥倖だった。普段紗月や菜々羽と一緒にいるせいか、あれくらいまともな人間と話せると凄く安心する。異様に距離が近くてヒヤリとする事はあるが。
「(けど、メアリは何か大丈夫な気がしちゃうんだよな……)」
一歩間違えれば紗月が暴れ出すため、一矢は普段女子と会話するときは程よい距離感を心がけている。思わせぶりな発言や、相手の容姿を褒める言動などは求められない限り控えている。多少仲良くなった女子ならさておき、初対面の相手についてはなおさらだ。しかしメアリ相手にはポロっと“可愛い”とか言ってしまう。天使のような見た目がそうさせるのだろうか。謎は深まるばかりである。
「(っていうか、お茶対決どうしよう……うーん……)」
用を足しながら考える一矢。
「あ、一矢クン」
「ん?おーう」
メアリがトイレにやってきて、個室に入って行った。一矢はお茶対決のことで悩んでいたため、“この出来事”はあまり気にならなかった。
用を足し終わり、水道で手を洗う。
「(……あれ?)」
そこでようやく彼は気付いた。
おかしい。
今、メアリはこの“男子トイレ”に来た。小便器で用を足す一矢に挨拶し、個室に入って行った。
「(え?……え?)」
頭がパニック状態になる。容姿や着ていた制服のタイプから、一矢はメアリの事を生物学上の♀だと思っていた。だから異性愛者の一矢はウエストを測る時に抱き着かれたり、和服を着るのを手伝おうとした時に焦った。
しかしメアリが生物学上の♂で異性愛者だとしたら、話はガラリと変わる。同性間でのボディタッチは異性間に比べてハードルが低いし、慣れていない和服の着脱を手伝おうとするのは納得がいく。
何より、あの紗月が一矢とべたべたするメアリを見て何もしなかった。菜々羽にはくすぐりの刑をしたのに。状況証拠ではあるが、ある意味絶対的な証拠とみなして良いだろう。
メアリが入った個室から水洗と衣擦れの音が聞こえる。用を足し終わったのか、着物姿のメアリが出てきた。
「ふー……あれ、どうしたの一矢クン?あ、もしかしてワタシ待っててくれたの?」
「え?ああ、うん、そんな感じ」
「そんな感じって何なのー?一矢クン面白いね。でも嬉しいし……ちょっと恥ずかしい。えへへ」
頬を掻いて、苦笑するメアリ。可愛い。そういえば、容姿を基準に考えるとその声は低く中性的だ。
「……」
一矢は迷っていた。我々♂には、♂足り得る“モノ”がある。それを掴めば瞬時にわかる。しかし、万が一モノが無かったらどうする?いくら某高校と言えど、一発で退学だろう。それに、ジェンダーの話はナイーブだ。本人が開示しないのに、第三者が興味本位で掘り起こすべきではない。
そして同時に、彼は考えていた。
もしメアリが生物学的にもジェンダー的にも男性なのだとしたら。
メアリとイチャイチャする分には、許されるのだろうか。
しかしそれは、開けると戻れない扉ではないだろうか。
いや、メアリだったら……?
――――――――――
「メアリ、男だよ。生物学的にも、ジェンダー的にも、性自認的にも」
トイレから出てきた一矢とメアリを見て、大前が言った。
「そうなんですか!?」
それを聞いて菜々羽が衝撃を受ける。
「知ってる」
紗月は“何を自明の事を”と言わんばかりに淡々と答える。
ちなみに、女子3人は茶道部の部室のドアから顔を出して、一矢とメアリを観察していた。お団子のように、上から紗月、大前、菜々羽の顔が並んでいる。
「嘘!?紗月、どうしてわかったんですか!?」
「一矢君に群がる虫を選別するのが私の役目だから」
「意味がわかりません……だったらどうして、ずっと一矢を監視していたんですか?」
「一矢君の観察が趣味だから」
「そうですか……」
一矢とメアリがいちゃつく度に肝を冷やしていた菜々羽だったが、完全に杞憂だった。つまり、メアリから引き剥がすために一矢に抱き着いたのは、無駄だったどころか逆に紗月を刺激してしまっていたらしい。
「(……というか、普通に恥ずかしいですわ……)」
菜々羽は耳まで赤くなる。
名家の出身である菜々羽は、軽々しく異性に抱き着くような指導はされていない。あの時は紗月の暴挙を防ぎたい一心だったが、思い返せばとんでもない事をしている。ゲーセンの時と言い、もう少し節度を持った接し方をすべきだろう。軽い女と見られてはいけない。
「……それで、大前さんはどこで知ったんですか?」
恥ずかしさを紛らわすために、大前にも質問をする菜々羽。
「茶道部って、着物に着替えるでしょ?その時にどこで着替えるのかっていう話になって。で、聞いたら男だって」
「へえ。そういえば東海林さんスカート履いてましたけど、あの人の趣味ですか?」
「いや、私の趣味だよ」
「貴方の趣味なんですか!?」
大前がニヤリと笑う。
「私ショタコンなんだけどさ、女装男子も好きで……どーーーしてもメアリにスカート履いてほしくて土下座して頼んだんだ。そしたら案の定可愛くて、もう1回土下座していつもスカートでいるようにお願いしたの。そして今に至る。あ、もちろん部活の時は女子用の着物着てるよ」
「なるほど、つまり黒幕は貴方だったんですね……というかそのためだけに土下座まで……」
「でへへ。でも想像してよ!あんなに可愛いのに、お股にチンチン生えてるんだよ!!チンチン!!」
「いえ、私そっちの趣味は無いので……っていうか涎垂れてます!私の頭に掛かったじゃないですか!!」
ポケットからハンカチを取り出し、頭を拭く菜々羽。ぺたりと、大前の涎が付いていた。
「なるほど……」
紗月が、ゴクリと唾を飲む。
「男の娘にアプローチされてドキドキしてる一矢君……背徳的で興奮する……」
実際、廊下をメアリと並んで歩く一矢の顔は固い。
「お、紗月ちゃんはそっち?私は佐山君に好き好き光線出すメアリが良すぎて……あっ見て!メアリが!」
メアリが手を伸ばし、一矢のブレザーの袖を掴んだ。
「「んんっ……!!」」
その様を見て、紗月と大前は近距離で顔を見合わせる。
「ちょっ、見た!?見た今の!?メアリ超可愛いぃ~っ!!」
「一矢君も見た!?ドキドキして視線泳いじゃってる!こっからは!?キスか!?○○○か!?○○○か!?」
変態シスターズすっかりエキサイトしていた。溢れ出した2人の涎が、菜々羽の頭に滝のように落ちていく。
「あの、よだれ……」
菜々羽が抗議するが、変態シスターズの耳には届かない。
「ああっ!メアリのお股がもじもじしてる!」
「一矢君!掘れ!」
「「ぬおぉぉおぉぉ!!」」
興奮が、最高潮に達した。
――――――――――
「……何か騒いでるとは思ってたけど、何だこれは……」
一矢とメアリが茶道部の部室の前に来た時、そこは地獄絵図と化していた。
まず、紗月と大前が笑顔で白目を剝き、倒れていた。そして菜々羽の頭にぬめぬめした液体が掛かっていた。
「祠堂、何があった」
「私も何が何だか」
「……今日はもう帰るか?」
「ええ。とりあえず着替えます……はは……」
半笑いの菜々羽は倒れている変態シスターズを跨ぎ、部室の障子の奥へと消えていった。
「……というわけで、お茶対決は相手の棄権でメアリの勝ちだな」
「あ、うん、やったぁ……」
目の前の惨状に声を失い、勝者のメアリは喜ぶことを忘れていたのだった。
本気《まじ》ならいいってもんじゃない nemu @hammer_head
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。本気《まじ》ならいいってもんじゃないの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。