3章
11.二ヵ月の時を経て
龍と天使が治める、世界唯一の国ルベウス。
太古に繰り広げられた大戦後、残った大地に築かれたこの大国は、天に
心身に相違があれど、黙して手を取り合うのが我らの生き残る道だとして。
長い年月をかけ、彼らは輝く石の名と共に歩んできた。
そんなルベウスで散発的に発生した、
最後に起きた日から二カ月と少し経った今でも、僕は当時の光景を心象から離すことが出来なかった。
「これで良かったんですよね」
迷いすぎよこの馬鹿と、呆れ気味に背中へ投げかける声が脳裏をよぎった。
ギヤマさんへの復讐も、ローエンさんをどうにかしたいと思ったのも。
胸に穿たれた一時的な衝動だとしても、僕の本音なのは変わらない。
だから間違った事はしていないと、静かに頷こうするけれど、他に良い方法があったんじゃないかと雑念が混じる。
「コウ殿。刃物を扱う時には考え事は禁物だ」
「あっ……。すみません。……駄目ですね、考えてしまう暇があると」
「まだ二カ月しか経っていないんだ。分別が付かなくても仕方ない」
隣に立つローエンさんに声をかけられ、僕の意識は現実に引き戻された。
集合住宅の一室。
ローエンさんと並んで台所に立つ僕は、包丁を使って慣れない根菜の皮むきをしている最中だった。
危うく指を切ってしまいそうな事態に陥っていたと反省し、頭の中を整理する。
僕がなぜ料理の手伝いをしているのか。
それは傷が治り、今は指先の感覚を取り戻すついでとして、僕から頼んだのだ。
だというのに、集中し切れていないのは失礼にも程がある。
「怪我さえしなければ良いさ。私も妻を失った時や娘を連れ去られた時は、似たようなものだった。誰かを失うことに慣れなんて無い」
「……そうですか。そう、なんですね」
心に伸しかかる
それが軽く感じるのは痛覚の麻痺も同然で、正常には程遠い。
頭では分かっている。
でも泣いている心が求めるのは、痛みのない優しい現実。
痛いのも苦しいのも嫌だって、あの日からずっと喚き続けている。
「――……はぁ。コウ殿。今日はここまでだな」
「えっ? ……あっ」
優しさの籠ったため息が零れる。
それで気付いた時には、僕の左の親指からじんわりと赤が広がっていた。
気を付けてと言われた傍から怪我をして、しかもローエンさんに指摘されなければ、気付くことなく作業を続けていた。
「謝らなくていい。むしろ私がお礼を言いたいくらいだ。観察処分の身としては、今この時は紛れもない好待遇だからな」
「分かりました。――今日もご指南、有り難うございました」
これ以上の集中は無理だと判断し、僕はローエンさんの指導を離れ、ダイニングへと足を運ぶ。
痛みのない切り傷を手当てしながら考えるのは、ローエンさんの口から零れた、観察処分という単語。
ローエンさんの立場は今、二年前から
そんな彼に
温情すぎる判断に見えるが、ソフィアさんと同じ"首輪"をつけられ、再度犯意を示せば瞬く間に処罰される。
だけどローエンさんからすれば、生きて動き回れるのは又とない機会。
「しかしコウ殿は物覚えも良いし、手先も器用だ。運動ばかりに力が入っているのは、
「僕じゃあローエンさんの娘さんには、似ても似つかないですよ。現に読み書きが苦手ですし」
「ああ、まあ……。私も得意とは言えないが、そこはコウ殿の記憶力とソフィア殿の指導力に期待しよう」
「――んだよ。アタシが教えんのに文句あんのか、オッサン」
僕たちの会話に割り込み、無遠慮に開けられた玄関から聞こえてきたのは女性の声。
そのままダイニングに乗り込み、テーブルに添えられた椅子へ座る朱色の女性は、端正な顔立ちを不服そうにしながら頬杖をついた。
ソフィア・ヴァーミリオン。
僕がローエンさんと出会った日、
活発な服装で格好いい
二カ月前の事件の流れのまま、ソフィアさんはローエンさんの監視役に任命。
それだけでも大変な筈なのに、身寄りを失った
「僕はソフィアさんに教えて貰えて嬉しいですよ。出来るなら真似をしたいくらい
「バカ言ってんなよ、コウ。
心からの感想のつもりだったが、ソフィアさんはそっぽを向いて払いのける。
そのまま彼女の意識は、料理中のローエンさんへと移っていく。
「なあオッサン。昼メシまだか?」
「もう少しだ。……私はコウ殿より、ソフィア殿に料理を覚えてもらいたい。今までどうしてたんだ」
「デキる奴に任せてた。適材適所だよ分かれ」
サラリと疑問に答えるソフィアさんに続き、ローエンさんは気分を落としながら事実を提示していく。
「そうせざる負えないだけだろう。勉学に反して家事は壊滅的。観察処分を受けてからの初仕事が、監視役の部屋の掃除からとは思わなかった」
「ビックリなのはアタシもだ。んだよオッサン、剣も料理も一級品の腕とか。村長してた主夫じゃねえよもう」
「料理は妻の無茶振りのせいだ。本意ではない!」
いったいどんな無茶振りをされれば、栄えた都市部の店舗顔負けな料理を作れるようになるのだろう。
そんな事を思いつつ、僕は指の処置を終えてキッチンへと戻る。
残る僕の仕事は、料理を盛り付ける食器の準備。
揃える数は三人分。
準備した端からローエンさんが盛り付けて、僕がテーブルへと運んでいく。
テーブルに並べられるのは、焼いた川魚を中心とした一見質素な品々。
溶いた卵を焼いた物に、幾つかの根菜を入れたスープ。
付け合わせにライ麦パン、小鉢には濃厚なソースで刻んだ牛肉の煮込み。
狼の
「
「正直に言って、僕も味の薄さに驚きました。でも作るのは、こういった料理の方が楽しいですね」
「この牛肉は結構味濃い気がすっけど……。アタシは味より量が足りねぇ」
僕たちが告げた評価は
総じて美味しいと言えるが、全員が違う出身であるが為に、求める物に差異が出る。
出された意見を頭の中で整理するローエンさんは、席に着きながら結論を述べた。
「味も量も、どちらも資金が無ければ話にならん」
「っとそれなんだが。今日これから紅玉騎士団が人よこすっ言ってるから、たぶん仕事だぞ」
「午後から? ……コウ殿の訓練に付き合おうと思っていたが、致し方ないな」
「僕なら大丈夫ですよ、ローエンさん。いつもの人と一緒ですから。国からの仕事を優先してください」
初めはローエンさんの付き添いで行っていたが、その際に知り合った人物にも付き合って貰っている。
激変する環境の中、大変なのは誰もが同じ。
信用してもいい相手がいると納得したローエンさんは、目元を緩めて言葉を返した。
「分かった。だが無茶はするなよ」
「はい。心得ています、ローエンさん」
どんな理由であれ、僕たち三人は命のやり取りをした。
それなのにどこか温かさを感じるこの一室の空気は、鈍く刺さりにくい針の
僕の心には、抜けない痛みが残り続けていた。
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