10.小さな芽吹き

 ポツポツと地面へ落ちる雨雫。

 鼻孔を刺激するアルコールの臭いに、私は重々しく目を開ける。


 私は死んだはず。

 ならばここは、あの世なのだろう。

 自ら立てた誓いを守れず、徒に命を奪ってきた私を迎い入れるのは、果たしてどのような場所か。


 体に痛みが走り、霞んでいた視界が晴れた先にあったのは、実に現実的な光景。


 簡素な布で覆われた、急造のテント。

 中を照らすのは、煌々と輝く真紅の炎を閉ざしたランプ。

 意識を取り戻した私と目が合ったのは、澄んだ水色の瞳。


「おや、起きましたか。流石は聖獣ラピスラズリの系譜。獣人マラカイトの頑丈さは侮れませんね」

水霊パール……? 貴女はいったい……」


 白い軍服に鍵盤楽器の如き音色の声。

 艶やかな青髪の女性は、私の体を指して感心を示す。


 しかしその感心に疑問が浮かぶ。

 身を起こし一人状態を確認するが、目立った外傷は無し。

 だというのに全身には、中身を何度も捏ねられたような激痛が主張する。


「私たちは紅玉こうぎょく騎士団。彼女に付けられた"首輪"。その反応が一時的に途絶えたので、急行したらこの有様です」

「彼女……。ああ、ソフィア殿か」


 軍服を着た彼女が指すのは、私から少し離れた場所で詰まらなそうに椅子に座るソフィア殿。

 彼女は私の視線に気づくや否や、あからさまに顔を背けた。


 致し方ない事だと納得しつつ、軍服の女性の言葉を元に現状の推察を進める。


 国の軍事を支える紅玉こうぎょく騎士団、そして派遣員であったソフィア殿。

 二つの点が繋がり、更には周囲を見渡すことで、出来上がった線はより太さが増していく。


 少年との衝突の末。

 生き永らえた私たちは、異変を察知した国に助けられた。

 いや私においてはその限りではなく、情報の為に生かされたのだろう。


「……ッ! 待て。私とソフィア殿が無事ならば、コウ殿は……!」

「どうどう、落ち着いて。向こうで爆睡中だから騒がないの」


 困惑に与えられた落ち着きは、新たに焦りを生み出す。


 私が最後に見たのは、胴を跳ねられる二人と胸を貫かれた自身。

 だが実際には胸に傷は無く、ソフィア殿も五体満足。


 ならばコウ殿も無事の筈だと目を血走らせ、ついに見つけた姿に言葉を失う。


 全身を包帯に包み、初めて会った時以上に酷い姿で眠りに落ちる少年。

 夢幻ゆめまぼろしだったのは当然、最後の一瞬だけ。


「通常の人間アゲートなら死体が動いている。そんな状態なんですよ、あの少年は。まったくどんな定型魔法スキルを使ったんだか」

「生きてはいるんですよね……?」

「生きてますね、不思議なことに。――その辺り、何か視ていませんか? ソフィア嬢」


 水霊パールの女性曰く、少年は死亡しているのが自然な状態で、今も生きているらしい。


 どうして生きていられるのか。


 そんな疑問は、戦闘の途中から私も感じていた。

 左目から蒼い火花を散らせ、濃霧を放ち、武器を槍へと変形させた、あの時から。


「ソイツは……コウは、感覚を狂わせる霧を出してた。アタシの龍の眼すら誤魔化せる程のな。お陰で詳しい事は分かんねえ。最後も夜みてぇな霧を出したとこまでしか覚えてねぇし」

「成る程。では彼が生きているのは、その霧の影響と仮定しましょう。感覚を狂わせるではなく。なにかを誤魔化す、騙すと捉えたら今の状況にも一応の説明が付きます」

「誤魔化し、騙すか。それなら――」


 ふと浮かんだのは、ソフィア殿の"首輪"の反応が一時的に途絶えた事実。

 細かな形式は違えど私が結んだ悪魔スクリュードとの契約も、同種の力だ。


 彼女と同じく霧に包まれた私ならばと、多くの不安と一筋の希望が胸の内からあふれ出た。


「私の"契約"はどうなったのだ?」

「それならソフィア嬢から話を聞いて、調べさせて貰ったよ。結果から言うと、枷は外されていた。逆探知されるから詳細までは掴めなかったけど、"契約"の続行不可で途切れたみたい」

「続行不可という事は、私は死んだ事になった……のか?」


 契約の未達成――コウ殿とソフィア殿の生存ではなく、契約を続けられなくなったというのは、どういう事だ。


 見直すのは、私がスクリュードと結んだ契約の内容。

 人質となった娘の身の保証の代わりに、私は彼の奴隷として仕事を手伝う事。

 これが続行できなくする為には、主に二つの条件しかない。


 一つは私かスクリュード、どちからが死亡する事。

 そしてもう一つは、ローナの身に何かがあった場合だ。


 悲観的に捉えるのなら、気まぐれな悪魔が契約を無視し、娘を害したと考える。

 だがそれなら当の昔に悪夢は実現し、私は見知らぬ地で朽ち果てているだろう。


 なら、それならば……


「堪えるな。年端もいかぬ少年に、諦めかけた道を示されるのは。ほんの小さな光だとしても、こうも眩しいとは」


 蒔いた極小の種がようやく芽吹いた時のように。

 それを枯らすまいと心から流れだす雨を、私は目元を押さえて掬い取る。


 あの場の三人、全員が生き残り。

 悪魔スクリュードを騙し、娘を救い出す新たな道を見せてくれた。


 楽観的だ、現実的じゃない、夢想家にも程がある。

 そんな理性をねじ伏せて、今だけは――


 今だけは小さなひかりに、涙をこぼさせてくれ。


「……んで。良いのかよ。訊くこと山ほどあんじゃねえのか。仕事どうした」

「今まさに仕事をこなしているさ、ソフィア嬢。私の役割は医療従事で、尋問じんもん管轄外かんかつがいなだけ。それは後々、龍族ルビーの誰かがするだろう」

「あっそう。まあどうでもいいけど。……アイツはいつ起きるんだ」

「少年かい? 症例が少ないから断言できないが、三日ほどで意識は戻るだろう」


 なら良いやと、ソフィア殿は会話を打ち切る。

 無言のまま朱色の瞳に収めるのは、涙する黒の人狼ではなく、寝たきりとなった謎多き少年。


 どうしてあの時、あの瞬間。

 胸に秘めた憧れと彼が被さって見えたのか。

 突き詰めようと記憶を辿るも、彼女の瞳に答えが映ることは無かった。

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