第三章 猫も杓子も
第1話 しろとしろくん
リンカネーションの窓越しに、豆腐売りのおじさんの笛の音が聞こえてきた。
もう夕方。そんなに時間がたったんのかと思うけれど、手の中の組みひもを握り締めたまま私は動けない。
朝、仏壇の引き出しからこれをみつけてから今までどうすごしたか、記憶があいまいだ。お客さんがこられ、応対はしていたけれど心ここにあらず。
夢の中でみたことは、実際にあった過去だとこのひもが物語っている。仏壇に子供はさわってわいけないと、小さい頃から祖母に言われていたからこのひもを見たことはない。
そして何より、横井さんが語った戦時中の記憶と昨日の夢があまりにも
私の前世は亡くなった糸子さんなの?
じゃあ、しろくんは? 私、しろくんと前世で会ってるの?
しろくん……、しろ……。まさか……。
答えの出ない問いがグルグルと脳内で回り続ける。ひもをみつけてからずっと考えていたこと。朝から何回この問いを繰り返しているのか。
ガラリ、格子戸が開く音で我にかえる。
この時間、訪れる人は……。
「おつかれさまです。まこさん、どうしたんですか」
四月に会った時よりも少しのびた柔らかい髪に、夕方のオレンジの光があたっている。大きな目で私をみる心配そうな白い顔。
何もいえずに、うつむき目を閉じる。あの喉をならしていた猫としろくんの面差しがかさなる。
まさか、まさか……。
何も答えない私を不審に思ったのだろう、しろくんはアンティークの部屋にあがってきた。そして、私の手の中のひもに気づき短い声をもらした。そして、ひと呼吸おいてはなし出す。
「それ、どこにあったんですか」
「うちの仏壇の引き出しに入ってた。この家で昔かってた猫のだって」
「そうなんですか、すごく古そうですね」
それだけをいって、なにごともなかったように染め糸の部屋にいこうとする。
いつもよりまがった背中をみつめ、心の中で問いかけた。
ほかにいう事があるんじゃないの? まだ、はぐらかすの? 私からいわないとダメなの?
「まって。しろくん、このひも知ってるの?」
まがった背中はびくりとまっすぐにのび、足がとまった。
「どういう意味ですか」
「どういう意味も、こういう意味もない。知ってるのかって聞いてるの」
めずらしく強い口調で私が問いつめると、あせったようにくるりとこちらを向いた。
しろくんの大きな目はとじられ、息を吸い込む。目はつむったまま、ゆっくりと言葉を押し出した。
「知ってます」
「これ、しろくんのだよね」
性急な問いに、沈黙しか返ってこない。私は答えを出したんだから、正解かどうか教えてほしい。自分が何者であったか知りたい。
「そうです。僕が前世でつけていたものです」
この答えを聞いて、つめていた息を一気に吐き出した。こわばっていた口元が、ふっと軽くなる。
「なーんだ、なんでもっと早く教えてくれなかったの?」
意外にも自分で驚くほど、明るい声だった。
そうか、私は誠の生まれ変わりじゃなかったから、ほっとしているのだ。たしかに、前世なんて荒唐無稽なはなし、信じられない。……信じられなかった。
でも実際に私の夢に出てきたものが現実にあり、その持ち主までいるのだ。もう夢で終わらせられない。事実だと受けいれないと。
糸子さんにも悪いような気がした。
「そんないきなり僕、猫の生まれ変わりです。なんていっても、信じられないでしょ」
「でも、最初。お世話になった猫ですっていったじゃない」
ちがうネコと勘違いしたことは、絶対ないしょだけれど。
照れているのか、しろくんは顔を赤らめそっぽをむく。
「あなたに会えてうれしくて、思わずいってしまっただけです」
「でも、すごいね。猫が人間に生まれ変わるなんて」
「そもそも仏教では、魂は六道を輪廻転生するといわれ、その六道には天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道があり、西陣では昔から六道参りが――」
よどみなくつらつらと、しゃべり続けるしろくん。
「もういいよ、そこまでで」
放っておいたら、いつまでも続きそうだった。
かくれんぼの鬼にみつかりバツの悪そうな顔。それでいて、みつけてもらってホッとしたような安心した顔。そんな複雑な表情をしているしろくんに、お願いごとをいう。
「あのね、なでてもいいかな。髪の毛」
「はっ? 何でですか」
そんな全身の毛を逆立てたみたいに拒否しなくても。
「えっと、夢の中でね、しろをなでてたの。糸子さん。私もなでてみたい。ぬくもりとか、手の感触から現実なんだって実感したいというか、うまくいえないんだけど。ダメかな?」
上目づかいに見ると、すっとしろくんは椅子に座る私の前で膝をおった。
「少しだけですからね」
すねたいいぐさがかわいい。私はそっと柔らかい髪に手を伸ばす。猫の毛並みとちがうけれど、夢でさわった感触がよみがえる。
生きているぬくもりが、てのひらにつたわる。しろは、生まれ変わったんだね。そう思うと、心の底にぽっとあたたかい灯りがともったようだった。
あまりなでていると、しろくんに悪いと髪から手をはなす。とたん、しろくんがそっと私のお腹に抱きついてきた。
はなした手は、ふたたび柔らかい毛にもどした。糸子さんにだったこされているしろの姿を思い出したから。
しろのことを愛しいと思う気持ちも。
彼の肩に手をおき、私はだまって頭をなで続けた。時をへて出会った、元飼い猫の男の子。
なつかしさで胸がいっぱいになる。私がなつかしがっているのではない。私の中の糸子さんがなつかしがっているのだろうか。
私以外の感情にとまどっていると、かすれて消えいりそうな声が耳へとどく。
「ごめんなさい、ごめんなさい――」
なでていた手が、一瞬とまった。
どうしてあやまるの? 糸子さんとしろに、何かあったの?
とまった手をふたたび動かしはじめる。悲痛な声に隠された、私の知らない過去から目をそらした。
今は知りたくない。今は……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます