第16話 しろの首輪
すりガラス越しに朝日がまぶしくて、目を覚ます。しかし朦朧とする意識はいまだ夢の中。
私、夢の中で女の子だった。それに、こうじって
あの男の子と女の子の関係は、たぶん姉弟。祖父には、姉が三人いた。うちふたりは存命している。しかしその大伯母たちの名前を、私は知らない。
のそのそと起きだし身支度をすませ、朝食の支度をはじめた。フライパンにベーコンをしき、玉子をおとす。ジュウジュウとベーコンのやける音を聞き、ふたをしめたところで祖父がキッチンにやってきた。
「おはよ、おじいちゃん」
つとめて明るい朝のあいさつを。背中越しにする。
「おはようさん」
ダイニングテーブルに座り新聞を広げた祖父へ、なにげなく聞いてみる。祖父の顔を見ずに。
「あのね、おじいちゃんのお姉さんたちの中に、いとちゃんって呼ばれてた人いる?」
ガサリと新聞をおく音がした。
「ああ、糸子ねえちゃんのことか。今年ももうすぐあの季節や。亡くなって何年になるかいな」
糸子さんは、亡くなっている……。フライパンのふたをあけながら、ぎゅっと目をつむった。まぶたの裏には、ガラスにうつった猫を抱いた女の子の姿がまだやきついている。
「それと、せっちゃんって誰?」
声が裏返りそうなのを必死におさえた。
私のただならぬ気配を微塵も感じていないのか、祖父はふんとひとつ大きく鼻をならした。
「横井のばあさんや。糸子ねえちゃんの友だちやったんや。またなんで、そんな話きくんや」
びくん……。危惧していたことを言い当てられ、体は硬直する。冷や汗が吹きでる額を手の甲でぬぐう。
「えっと、昨日こられたお客さんが、昔話しててそこでふたりの名前でてきたの」
このうそに祖父は、なんの疑問もはさまなかった。
祖父とふたりの朝食。トーストがのどの奥にひっかかり、なかなかのみこめない。それでも、なんとか食べ終え、店へむかう。
開店準備をして、店内の掃除にかかるがちっとも身がはいらない。あやうく、棚にかざってある香水瓶をひっくり返しそうになった。
今日は、お客さんが少ないことをいのりつつライティングビューローに座ると、格子戸からよく通る大きな声がきこえてきた。
「おはようさん。早いけどええか」
時計を見ると、十時半。開店には早いけど私は返事をした。
「どうぞ、入ってください。横井さん」
すらりと背の高い横井さんが、店内へ入ってきた。八十を超える年齢だけれど、背筋はピンとのび老いを感じさせない。
祖母の友人で、この店の常連客。今も、レース編みを趣味として染め糸を買いに来てくれる。
「二十番のレース糸で
「あっ、はい。ちょっとまってください」
私はすばやく、染め糸の部屋へ移動する。レース糸は太さによって番号がふられている。番号が大きいほど、糸は細くなる。二十番の糸はレース糸の中では太い糸で、初心者むけの糸だった。
「珍しいですね、二十番の糸なんて」
横井さんは上級者。普段、四十番以上の細い糸を購入していた。
「タティングレースしよかなと思てな。西村さんがえらいはりきって、タティングレースのモチーフ編んでたし。うちも編んでみたなってん」
横井さんと西村さんは、ご近所さん。なるほど、そういうことか。
私はタティングレースにむく、二十番の撚りの強い糸を棚からだした。
「これは、コットンですけどシルクがいいですか?」
「そやなあ、最初やしコットンにしとくは、白い糸にしとこ」
……白い糸、しろ、白い猫。連想ゲームのように頭の中で言葉がかけめぐる。カサカサに乾いた唇を舌でぬらし、口をひらいた。
「あの、横井さん子どもの頃。この家で遊んでたんでしょ。祖父から聞きました」
本当は違うけど、祖父の名前をつかった。仲の悪い祖父を出して機嫌をそこねるかと心配したが、とくだん横井さんは気分を害していないようだ。
「ああ、なつかしいなあ。いとちゃんと仲よかってん、うち」
「それで、この家で白い猫かってましたか?」
もし、かっていなかったらあの夢はただの夢。祖父の昔話を都合よく夢に変換しただけ。でも、本当だったら。あの夢は前世の夢なのだろうか。そして私は……。
「ああ、こうてたえ。戦時中のはなしや。戦時中は猫も供出対象でなあ。皮はいで軍服に利用したらしいわ。そやから、こっそりこうてたん」
夢の内容に一致する。あの子は猫が外に出ることを恐れていた。みつかると連れていかれたからだったのか。
それにしても、ひどいはなしだ。猫を供出させるなんて。
土田家はこっそりかっていたが、多勢の人々は命令にしたがったのだろう。
供出されずに命をながらえた、しろ。恩義に感じただろうか……。
ちがう、猫はそんなこと思わない……。
「そや、その猫の首輪にしてたひも。まだあんたんとこの仏壇にあると思うわ。こうちゃんが、供養にとってるてゆうてたし」
横井さんはここで、言葉を切り私の顔をのぞきこむ。
「どうしたん、えらい顔が真っ青やけど。気分悪いんか」
「いえ、大丈夫です――」
それしかいえなかった。横井さんの選んだ糸を計りのついた糸巻で、小さいコーンに三十グラム巻いていく。
手は動いていたが、まったく頭は働いていなかった。
横井さんが帰ってから、いそいで奥の間の仏壇へ走る。ドタドタと廊下を走る私に、祖父がかけた声も耳にはいらない。
仏壇に手も合わせず、引き出しを開けていく。小引き出しにそれは入っていた。
夢で見たひもより、だいぶんくすんでボロボロになっていたが、まちがいなく猫の首に巻かれていた赤と紫の組みひもだった。
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