第3話 猫田くん

 あーー! そっか、猫ってネコか! 女子が腐っていると書いて、腐女子とよばれる人たち――私はちがうけど――がこよなく愛するボーイズラブ。通称BLの専門用語。


 リードされる男性の隠語がネコ。そっか、そっちのネコか。こんなところで、突然のカミングアウト。なんで?


 彼の意味不明なセリフをなんとか理解しようと、口をあんぐりあけて妄想を暴走させる。たしかにこの人小柄でかわいいし、そっち系のおにいさんには人気かも。その白い顔を食いいるように見ていたら、声をかけられた。


「スマホ、おちましたよ」


 初対面の人の顔を不躾にジロジロ見たあげく、あられもない妄想をした気まずさから、とっさにしゃがんでスマホをひろう。


「このお店むかしは、生糸をあつかってたのに、今はちがうんですね」


 外見とはうらはらな、おちついた低い声にとまどう。

 たしかに昭和の中頃までずっとこの町家で土田家は、生糸の商売をしてきた。


 外玄関から内玄関までまっすぐのびる土間をはさんだ左右ふたつの和室が、みせだった。現在リンカネーションとして染め糸をあつかっている店も、そのふた間をつかっている。


 この人なんで、そんなこと知っているんだろう。スマホをひろい、ますます正体の見えない相手へおずおずとむきなおる。


「あの、建築学科の学生さんかなにかですか」


 大学の先生が学生をつれてきて、古い町屋を見学させてほしいといわれることがある。建築学科の学生なら、ここがむかし糸問屋だったことも知っていてもおかしくない。


 私の問いに、彼はあいまいに笑い何もいわない。黒目がちの大きな目が、クイズの答えを早く出してほしいと、せかすようにじっと私をみつめる。そんな目でみられても、わからないものはわからない。


 建築学科の学生じゃない。お客さんでもない。おまけにむこうは私のこと知っている。彼がのぞむ答えは、私の中にない。そんないたたまれない沈黙にたえられず、重い口をひらく。


「えっと、どこかで――」


 とつぜん半分だけあいていた格子戸がガラリと勢いよくあき、私のセリフを消した。


「まこー、白糸もってきたで。染めにだすんやろ?」


 低い格子戸をくぐるようにして、手に段ボール箱をもったスーツ姿の人が町家にはいってきた。そこにたつ白いシャツの彼をみおろし、たれた目をよりさげてにこりと笑う。


「ようおこしやす。男性のお客さんとはめずらしいなあ」


 いとこの土田つちだ 純弥じゅんや。土田商店で働いている純にいちゃんが、糸を届けてくれたのだ。そのすらりと背の高い姿をみて、しんそこ安堵する。知らない人から、こちらのことを知られている不安な状況。すがるような目で、純にいちゃんを見る。


「そうなの。さっきこられて――」


 私の言葉はさえぎられた。


「いえ、お客ではありません。僕の名前は猫田ねこた 真白ましろといいます。ここへは、恩返しにきました」


「恩返しやて?」

「あっ、名前が猫なの!」


 疑問と納得の言葉を、同時にふたりは発する。へんな妄想をした自分がはずかしい。猫田なら、猫田とはっきりいってくれたらいいのに。いまの子ってなんでも略すから。に自分を入れずに、勝手にぐちる。


「むかし、こちらのおうちで大変お世話になりました」


 猫田くんは折り目正しく両手を前で重ね、少し頭をさげた。


「いや、むかして。君まだ若いやろ。子供のころのはなし? うちの誰が世話したんか知らんけど、そんなん子供は気にせんでええよ」


 あっけにとられて何もいえない私とちがって、純にいちゃんは冷静に彼の申し出に大人の対応をとった。

 甘えていたらだめだ。ここは私のお店なんだから。頼りになる人のそばだと不安はぬぐわれ、安心して相手とむきあえる。


「えっと、祖父か祖母ですか? あいにく祖母は他界してますし、祖父はいま留守で」


 殊勝な心掛けの青年にほほえみながら私はいう。しかしなんとか作り出したゆとりは、彼のまっすぐな視線にさらされ、早くもうすれはじめる。


「僕は、あなたを助けたいんです。このお店で働かせてください」


 何をさっきから、この人はいってるんだろう。意味のわからないことばかり。みも知らぬ人に助けてもらうほど、わたし困ってなんかないのに。私の手が、ベージュのワンピースを強くにぎりしめる。手のひらには、リネン特有のざらついた感触。


 いやだ。こんなベールをへだてたかみ合わない会話なんか、したくない。早く、ここから出ていってほしい。


「あの、あなたは私のこと知ってるみたいだけど、私にはまったく覚えがありません。それに、この店にアルバイトを雇うほどの余裕なんて――」


 一瞬、彼の眉間に痛みをこらえるようにしわがよる。しかしすぐに拒絶にものともせず、彼の右足は大きく一歩をふみ出し私との距離をちぢめた。


「あなた、いま困っていましたよね。さっき電話でこのお店潰したくないっていってました」


 顔がカッと熱くなる。さっきの電話聞かれていたんだ。あんな、なさけないほど震えた声を。泣き言いってるかわいそうな店主だって同情されたから、こんなこといわれてる。きっとそう。


「ちょっと君、待ちや。はなしが全然みえん。とりあえず、今は祖父がいいひんから出なおしてくれへんか」


 純にいちゃんが、私に近よろうとする猫田くんの肩をつかむ。つかんだと同時に、もうひとり別の声がした。


「わし、帰って来たで。なんかようか? なんやみんなして、しけた顔して。若いもんは、若いだけで老人よりハッピーなんやさかい、明るい顔せんかいな」


 松葉色のお召しの長着に羽織を着た祖父が、信玄袋をぶらさげて軒下にたっていた。









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