第10話「この関係に終止符を」

 第9話


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 空の青さが海面に溶け出していた。一番星のかけらを敷き詰めたように、砂浜がきらめく。ここは沖縄でもハワイでもない。山口県長門市にある海水浴場だ。

 私は波打ち際で写真を撮る。とっておきのアングルを見つけたい。この海を見せたい人がいた。だが、写真のフォルダがコバルトブルーで埋め尽くされても、送る写真は決まらなかった。


 中腰はえらい。ゆっくりと座り込み、画像を消去した。

 同伴しているカメラ女子に頼めば、一発で撮れるはずだ。先輩の威厳は捨てて、早めに助言をもらおうかな。


「夏帆先輩、いつまでラッシュガードを着ているのだ? せっかく水着を購入されたのに」


 浮き輪を持った涼風が目の前で立ち止まる。遅れて来た日向ちゃんも小首を傾げた。噂をすれば影が差す。

 写真を頼む前に、ラッシュガードの裾を伸ばした。最終的に自分で選んだとはいえ、この下は女の子同士でも見せられない。


「新しい水着、恥ずかしい。ビキニより着やすいけど、寸胴体型さんには厳しいデザインじゃない?」


 日向ちゃんと涼風は顔を見合わせる。


「聞き捨てならないセリフですね。先輩は細いし、くびれもあるじゃないですか」

「右に同じだ」


 日焼け跡を隠すフリルビキニ、水玉模様のハイネック。後輩二人の視線が鋭くなった。

 買い物に付き合ってもらって申し訳ないが、スク水でも良かった気がする。身長も体格も、中学のときと変わっていないのだから。


「それはそれで、一部のファンが黙っていないような」

「こらこら。涼風は先輩を不安にさせないの」


 優しいまなざしに、ほっとしたときだった。日向ちゃんの顔が目と鼻の先に迫る。

 背中の感触から、砂浜に押し倒されたのだと分かった。恐怖よりも戸惑いの方が大きい。日向ちゃんはファスナーに手を伸ばす。


「やっと片思いに別れを告げたんでしょう? いい加減、はっちゃけてくださいよ」

「脱がす必要ないから! 涼風ちゃん、助けて」


 頼りになると思われた後輩は、幸せそうな顔で昇天していた。私も、ぎゅっと目を閉じる。

 拝啓、海斗くん。夏は理性のタガが外れる季節みたいです。




 ***




 学内の桜に、何組もの家族連れが列を作った。学科別オリエンテーションが滞りなく終わり、ビラを持った学生が走り回る。二年生になった私も、勧誘に駆り出されていた。


「同じ大学に入りたかったな」


 今年もきみのいない春を迎える。

 SNSで呼び掛けて、海斗くんに繋がる情報は一つもなかった。届くのは、返答に困るダイレクトメールだけ。石鯛さんのような成りすましのほか、QRコードの読み込みで裏垢に誘導させる手口もあった。


 ごめんね、フォロワーさん。五千人を超えたことは嬉しいけど、私が本当に繋がりたいのは海斗くんだけなんだ。捜索の邪魔だけはしないでほしいの。

 上総海斗という実名を出せば、確実に見つかるかもしれない。だが、一番重要な個人情報を公開する気にはなれなかった。因幡くんと伊予くんの支援がなければ、探すモチベーションを維持するのは難しかっただろう。


 最後の一枚を配り終えたとき、うろうろする男性と目が合った。茶色いスーツを着た既視感のある顔は、知り合いの保護者かもしれない。同じサークルの先輩が、弟も入学すると話していた。

 校内図は保護者にも配布されているが、似た建物ばかりで迷いやすい。私も講義室の場所を覚えるまで半年掛かった。彼の役に立ちたいと思った。


「お困りですか?」


 男性は首を振った。やっと見つけたと呟く。


「どうして連絡くれないの? 最初に情報提供した恩人なのに、扱いがひどいよ。フォロワーが多いとリプが遅くなるの分かるけどさ。限度はあるよね」


 私は腕をさする。無風のはずなのに、ねっとりとした空気を感じた。


「例の彼と再会できていないんでしょ? 僕が忘れさせてあげるよ」


 本能が危険を告げる。

 男性に絡まれたのは初めてではないが、盾になってくれた友達ちひろはもういない。自分で切り抜けないと。


「や」


 喉がうまく動かない。

 にたりと微笑む男性に腹が立った。大人しそうに見えるかもしれないけど、怒らせたら怖いんだから。私は息を吸った。


「しつこいんじゃ、わりゃあ!」


 語気を荒げようとした結果、広島弁が飛び出した。柔らかな語尾の山口弁は、喧嘩に向いていないらしい。男性をキッと睨みつける。


「海斗くん以外の優しさはいらないんよ」


 厳密に言えば、「海斗くんを探し隊」も大切な存在に含まれている。だが、今は話がややこしくなるため除外する。

 私が言い返さないと思っていたのか、男性は後ずさりした。その態度も気に食わない。堪忍袋の緒が切れた。


「小学生のころ、私の淋しさを埋めてくれたから惚れたと思っちょるん? 私が内気だったから、海斗くんの強さに惹かれたとでも? それなら半分はうちょるよ」


 手紙に書けなかった想いが、喉から込み上げる。


「海斗くんに笑っていてほしいと思った。私といるときは、居場所がないなんて感じさせたくなかった。だけど手紙が届かなくなって、SNSで探しても梨のつぶてで。もう私の存在価値はないんじゃないかって不安だった」


 私は何を言っているの。心の中でツッコんだ。禿げた老爺じゃなくて、一番伝えたい人に言うべきだよね。

 もう、どうとでもなれ。


「手紙が届かなくなっても、ずっと海斗くんのことを考えちょった。それくらい、海斗くんが大好きなの。どこの馬の骨とも分からないストーカーなんぞに入らせる、心の隙間なんてありはしない!」


 十年に一度レベルの啖呵を切った。思いのほか周囲の視線を集めたことも加わり、私の生命力はゼロに近い。一方、男性は口を開けたまま硬直していた。逆上しているように見えないことだけが救いだ。さあ、気まずい空気をどうしよう。


「なーんだ。意外と芯のある子じゃない」


 振り返ると、警備員を連れた女の子が佇んでいた。蜂蜜色のトレンチコートに両手を突っ込んでいる。ケーブルニットのワンピースは学内でよく見かけるコーデだ。教育学部や薬学部の学生だろうか。


「ありがとう。助けてくれて」


 頭を下げた私に、彼女は朗らかな声で包み込む。


「いいって。生理的に受け付けない人種だったし。それに、友達に発破を掛けておいて、私は一歩も進まないの癪じゃん? あいつと面会できたついでに、もう一つのわだかまりも消しときたいって思った訳よ」


 どういうことだろう。後半の言葉に思考が停止する。私の頭の中は疑問符で埋め尽くされた。


「じゃあ、私はこれで。夜には札幌に着いとかないといけないんだよね。明日の九時からオリだし」


 女の子は胸元のポケットから、水色のメガネを取り出した。千洋の丸メガネと違い、キリっとしたフレームだ。


「待って。お礼したいから連絡先を教えてくれないかな?」

「律儀だなぁ。手間賃はあいつから取るからいいよ」


 女の子は私の背後を指差した。新入生らしきスーツを着た男性に、胸の高鳴りが止まらない。私を見つめる優しい眼差しは、間違えようがなかった。


「海斗くんなの?」

「泣くなよ、夏帆」


 濡れた頬を海斗くんが拭う。海斗くんと出会ってからは、人前で泣かなくなったのに。

 私は海斗くんを抱きしめた。漂うムスクの香りが大人になったことを証明する。

 夢じゃない。ちゃんと再会できているんだ。海斗くんの肩口を汚さないよう、小さく鼻をすすった。


「だって、ずっと音信不通だったから! 事故で泉下の客となったのかと思った」

「夏帆の前に出て恥ずかしくないような、頼れる大人になって会いたかったんだ」


 海斗くんが頭を撫でる。身を委ねたくなるほど手の温もりが心地良い。私は爪先立ちしながら、海斗くんの頬を摘まんだ。


「ばか」


 全然カッコ良くないよ。甘い言葉にときめくほど、私は優しくないから。


「いらない、そんな気遣い。私はずっと心配しとったんよ」


 手紙が途絶えてから、最悪の事態を幾度となく覚悟した。記憶喪失になっているかもしれないと本気で考えたこともある。

 むくれる私を海斗くんがなだめた。


「夏帆を心配させたくなかったんだ。名字が母方の摂津に変わったり、家庭の事情で受験できなかったり色々あったからさ。夏帆がSNSで探してくれていて、嬉しかったよ」

「ごめん」

「何で夏帆が謝るんだ? 悪いのは俺なのに」

「一番せんないときに、支えてあげられなくてごめんなさい」


 手紙が届かないだけで、心細くなって申し訳ない。


「そんなことないって。夏帆にもらった手紙が、俺の心の支えになったんだ」

「本当?」


 海斗くんは頷くと、思い出したような顔になる。さすがにハグが長かったのかもしれない。ぎこちなく距離を取った。


「長門はどこに行った?」


 メガネの子を放置していたことに気付く。彼女のいた場所は、桜の花びらがあるだけだった。お礼は海斗くんからもらうと言っていたが、中途半端な別れ方で良かったのだろうか。


「なぁ、夏帆」


 海斗くんは私を見つめた。遠慮がちに言葉を紡ぐ。


「あのころに戻れるかな。昔みたいにさ、気兼ねなく話したいんだ」


 その告白は、私が恋愛対象ではないことを示していた。友達に戻りたいなんて、回りくどい言い方をしないでほしい。恋人としては付き合えないと、ハッキリ言えばいいのに。

 余計な思いやりのおかげで、失恋の傷が深くなる。私は涙腺が緩まないうちに笑みを作った。その表情は、かつての泣き笑いとは程遠い。同じ場所で学べる幸せが、私の心を満たしていた。

 どんな言葉でも受け入れると、かつて手紙に書いた。偽りなき本心を曲げるつもりはない。未練なんて、ある訳がなかった。




 ***




 ポニーテールは潮の香りがした。

 波打ち際で押し倒されたせいか、私も日向ちゃんもずぶ濡れだ。テントを設営していた男性陣に、遊んでいてずるいと叱られそうだ。

 

「夏帆ちゃん。座り込んで大丈夫? って……」


 千洋が絶句するのも無理はない。ラッシュガードを後輩に奪われた地獄絵図だ。私は恨めしげに水着を見下ろす。


 前から見れば普通のワンピースタイプの水着だ。胸から腰回りにかけて編み上げが施されていなければ。


 誰が得するの、こんな水着。無地の白色に油断した。

 両サイドのチラ見せなんて聞いていない。しかも、お尻に布地が食い込んでいる気がする。後輩から提示された中で、布面積が一番多いものを選んだはずなのに。


 男性陣はみんな顔を背けていた。やっぱり似合っていないんだろうな。


「先輩、大きな誤解ですよ!」


 日向ちゃんは、私のスマホを借りてシャッターを切る。目にも止まらぬ速さで文字入力していた。


「知夏先輩の既読が早い。夏帆先輩、これを見て元気出してくださいよ」


 送られたスタンプを見て、私の顔はほころんだ。「かわわ!」と頬に手を当てる、猫耳の女の子。私の水着姿より、知夏の方が可愛いって。

 私が返信する前に、新しいメッセージを受信した。


『上総くんがデレデレになってる! こんな顔できるなんて知らなかった。あいつの情けない顔をまた隠し撮りしといて』


 海斗くんが情けない顔なんてするかなぁ。いつもカッコ良いのに。私はそっぽを向いている海斗くんに駆け寄った。


「ねぇ、顔赤いけど熱でもあるの?」

「ありがたいけど、正気を保てそうにない」


 額に手を当てることの、どこがいけないのだろうか。夏風邪を引いていたら大変だ。真剣に体温を測っていると、父が口を挟む。


「夏帆と海斗くんは、まだ付き合ってないんか?」

「お父さん! 余計なこと言わないで」


 デリカシーないんだから。その一言がクリティカルヒットになったらしい。父は海に飛び込んだ。


「海斗くんをうちに泊めたり、くずし字の読み方を教えたりしちょるから! てっきり彼氏を紹介してくれたものかと……」

「周防さん、僕も似たような失言をして妻から怒られましたよ。若い二人はそっとしておきましょう」


 安芸父が追いかければ安心だ。

 私は息をつくと、スマホの電話が鳴った。驚きのあまり砂浜に落としてしまった。


「海斗くん、夏帆ちゃんと同じ大学に通えているんだよね? 大事な子ほど手を出せないなんて小学生か。好きな気持ちがまだあるなら、さっさと告りんさい!」

「千洋、よくぞ言ってくれた」

「俺と伊予の分まで仇を討ってくれて感謝する」

「言える訳ないだろ。夏帆に送った手紙の内容が、パッチワークキルトで再現されていたんだぞ。嬉しすぎて告白するタイミング逃すって」


 ごめん、四人とも。スマホを取るのに必死で聞き流しちゃった。伊予くんと因幡くん、海斗くんと車の中で和解していたのに。私のいない間に喧嘩しないでよ。


「お母さん? どうしたの?」


 スピーカーから上機嫌な声が響く。


『夏帆宛てに郵便が届いたのよ。小学校六年生のときに書いた、二十歳の自分へ向けた手紙』


 そんな手紙を書いた記憶がない。私は海斗くんと顔を見合わせる。

 伊予くんがぽんと手を叩いた。


「それ、俺のところにも五月に届いたっけ」

「誕生月に届くよう、担任の先生が投函しているんじゃないかな。こっちは、秋生まれだから来てないけど」


 母の安堵する声がこぼれた。


『良かった。それでね、海斗くんの分も送られてきたの。当時の担任の先生に、ここに届くよう言伝していたみたい。海斗くんのお母さんに連絡したら、写メしてほしいって言われて……』


 開けたんだ、本人より先に。

 母は悪びれずに話を続けた。


『手紙を見て驚いた。夏帆の文面とそっくりだったのよ。昔から仲良しだったのね』


 海斗くんが、あっと息を漏らす。待って、私も自力で思い出したい。


「昔の私は、どんな切手を貼っちょった?」

『絵じゃなくて写真の切手よ。海のそばに鳥居がよーけあるわね。元乃隅神社じゃないかしら』


 世界一投げにくい賽銭箱がある場所だ。あのころ、どんな思いで貼ったのだろう。海斗くんがすぐに転校することを知らない私は。

 便箋の文字を蘇らせたのは、海のように深い青色だった。




 ***




 周防夏帆様


 二十歳の自分は、泣き虫のままですか。カッコ良い大人になれていますか。

 人の顔ばかり気にして、損ばかりしていませんように。


 海斗くんに、たくさん友達を作ってあげてください。あんなに優しくてカッコ良い男の子には、ずっと笑っていてほしい。友達の作り方なんて、今の私が一番知りたいけど。家庭訪問は毎年「周防さんは友達ができないところだけが欠点です」って言われちょったね。がんばれ、自分!


 もう、けっこんしていますか? 相手は海斗くんみたいな人、というか海斗くんが良いな。


 海斗くんに想いを伝えるべきか迷っていたら、すぐに告白するんだよ。おどおどしないで。いつまで経っても平行線なのは嫌でしょう。かけひきなんて、不器用な私には無理無理。直球勝負あるのみ! なーんて、本の受け売りだけどね。

 フラれても大丈夫。お父さんとお母さんの作った、世界で一番おいしいパンを食べまくりんさい。



 八年前の自分より



 ***




 海斗くんと過ごした時間は青春の全てだった。月日を得ても、青の鮮やかさは変わらない。夏の海のように輝く美しい思い出でありながら、淡くて頼りない色にも思える。

 水面を掴めないように、初恋を実らせることはできない。諦めよりも、綺麗な思い出を壊したくない気持ちが強かった。


 だけど、今なら。手紙に書けたことを直接言える気がする。


「あのね。初めて会ったときから貴方のことが好きだよ」


 私は海斗くんの耳に囁いた。



【了】

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