第46話 鼻歌は意外と聞かれている

 唇を合わせたのは、ほんの二秒ほど。しかし、明莉への衝撃は大きかったようだ。大きな目をさらに大きく見開き、硬直している。

 明莉だけではなく、実は俺もかなり驚いていた。そこそこの年数を生きてきたつもりだが、自分をこんなにも衝動的な人間だとは思っていなかった。


「明莉?」

「えーっと……」


 心ここに在らずといった声は、まだ状況が把握できていないようだ。明莉は柔らかく滑らかな指で、自分の唇を触る。その感触でようやく正気を取り戻したのか、白い肌がわかりやすく桃色に染まった。


「あ、え、え、あわわわわわわわわ」

「あー、明莉、さん?」

「はい、明莉です」

「うん、明莉だね」


 今度は混乱のあまり、よくわからない返事をしてくれる。これまずいと思う。あまりにも突然にしてしまった。ムードなど、考えがなさすぎた。自分の行動への後悔が次々と浮かんでくる。


「あ、あの、健司さん」

「はい」

「は、は、初めて、でした」

「おぉ……」


 明莉にとって初めての彼氏なんだから、それは当然だ。しかし、なんとなくわかっていたとはいえ、実際に聞いてしまうと重大さを更に実感してしまう。


 ここは謝るべきか。いや、それは失礼だろう。

 などと、俺は狼狽するしかなかった。


「あの、ですね」

「お、おう」

「とっても、嬉しいです……」


 目を伏せ、真っ赤な顔をして、消え入りそうな声で、明莉は呟いた。

 その一言で、俺を支配していたネガティブ思考の全てが吹き飛んだ。ちっぽけな自分を恥じることすら忘れ、ただ好きだと思った。


「うん、俺も」

「それは、もっと嬉しくなってしまいます。あ、でもですね」

「うん?」

「これは、突然すぎますよ」


 気持ちが落ち着いて、調子が戻ってきたみたいだ。右手をぶんぶん振りながら抗議の声を上げてくる。


「うん、急だったかも」

「なので、ちゃんとやり直してください」


 そう言った明莉は、目を閉じて唇を突き出した。言葉とは逆に、顔は赤く染まったままだ。きっと必死に勇気を出しているのだろう。改めてというのは照れくさいが、このリクエストに応えないという選択肢はない。

 震える肩を優しく掴み、顔を寄せた。若干荒くなっている鼻息が可愛らしい。多少の人目もあるが、まったく気にならなかった。


「いくよ」

「はい……」


 唇同士が触れる直前、聞き覚えのある歌が流れた。


「うおっ」

「わっ」


 それに驚いてしまい、お互いに体を離してしまう。音は明莉の肩掛けバッグから鳴っていた。


「電話、ですね」

「電話、だな」


 明莉がバッグから取り出した携帯電話から、少し前に流行った恋愛の歌が流れている。料理をしながらよく口ずさんでいたので、俺の耳にも残っていた。

 この歌を聞くと、絶妙に音がずれている鼻歌を思い出す。その度に微笑ましい気分になるのは、俺だけの秘密だ。


「わ、由佳ちゃんからです」


 明莉が見せてきた携帯電話の画面には『瀬戸 由佳』と表示されている。俺が持つ魔法使い用の電話ではないから、緊急性のある連絡ではないと思う。

 ただ、万が一ということもある。それに、雰囲気もなにもなくなってしまった。気になりながらやり直すよりも、対応を先に済ませてしまった方がいい。瀬戸め、やってくれたな。


「とりあえず、出てみな」

「あ、はい」


 俺の彼女は、電話に出る横顔も可愛い。しかし、それはすぐに困惑の色に塗り潰されていった。


「え、なに? どういうこと?」


 漏れ出てくる声を聞く限り、向こうはかなり興奮している様子だ。瀬戸の対応に慣れている明莉が困っているということは、相当おかしいことを言っていると想定される。


「えっと、ちょっと待って、健司さんにかわってもいい? あ、うんうん、今ね一緒にいるの。へへー、デートしてたのです」


 このタイミングで惚気るとは思っていなかったが、電話をかわることになる予感はしていた。明莉で手に負えない話なら、俺の方に回ってくるのが当然だろう。


「健司さん、すみませんが……」

「ああ、いいよ」


 明莉から携帯電話を受け取り、耳にあてた。これって、間接的に頬ずりしてることになるだろうか。


「あー、瀬戸?」

『里中さん! これはどういうことですか!』

「うわっ」


 あまりの大声に、思わず耳から離してしまった。こいつは、相当興奮している。


「とりあえず落ち着け」

『これが落ち着けますか! この残留魔力!』

「ああ……」


 それで納得した。瀬戸はなんらかの理由で俺のアパートまで来たのだろう。そして、あれを感じてしまったのだ。


「まぁ、つまりな、そういうことだよ」

『どういうことですか! あのお方がいらっしゃっていたなんて!』

「いや、普通に会いに来ただけだけど……」

『普通って! 普通って!』

「ちょっと待て」


 だめだ。これは話にならない。電話を離しても、まだ何かわめいている。

 明莉にはとっても申し訳ないが、アパートの前で騒がれるのも迷惑だ。今日はもう帰った方がいい。


「明莉」

「はい、わかってますよ」

「悪いな」

「大丈夫です。私は幸せですよ」

「俺もだよ」


 全部お見通しだった。やっぱりこの子には敵わない。

 瀬戸には後で何かしらの嫌がらせをしよう。


「あー、瀬戸」

『なんですか裏切り者』

「なんも裏切ってないぞ」

『私の気持ちを知っていながら、よくも言いますね』

「とりあえず今からそっち帰るから、大人しく体育座りして待ってろ」


 返事を聞く前に、通話を切断してやった。狂信者はこれだから困る。

 ただ、少なからず俺にも落ち度はある。師匠が来た時点でこうなることは想定できたはずなのだ。それに、魔法使い用の電話にかけてこなかったのは、最後に残っていた理性からだとも想像できる。ちなみに、俺のプライベートの番号は教えていない。

 あまりの展開に混乱したり、明莉とのデートに浮かれたりした結果だ。責任をとるというまでは考えていないが、瀬戸の憤りを受け止めてやろうとは思う。


「さ、帰るか」

「はいっ!」


 俺の差し出した左手を、柔らかく滑らかな指が元気よく握った。

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