第44話 男はだいたいポニーテールに弱い
俺のアパートはまるで台風一過だった。なんかもう、いろいろとかき乱された。思考がまったく落ち着かない。
混乱は感情面だけではなかった。師匠から溢れ出ているとんでもない魔力の痕跡は、数日間は消えないで残るだろう。いつものことではあるのだが、今回は特にすごい。
たぶん、想いを言葉にしたことが影響しているのだと思う。人の体内魔力は、持ち主の精神状態で多少の増減をみせることがある。師匠の場合は、その多少が常識外なのだ。
それと、俺をそわそわさせている要因はもうひとつある。
「あのさ、明莉」
「はい、なんでしょう」
俺を背後から抱き締めたままの明莉は、一応の返事を口にする。ただし、心ここに在らずといった様子だ。その気持ちはわかる、充分にわかる。しかし、このままでは大変よろしくない。
「背中がね、大変なことにね」
「背中、ですか?」
やめてくれ明莉、少し身じろぎするだけで俺への効果は抜群だ。柔らかな感触は、微妙に位置を変えて襲いかかり続ける。
「背中……あ、わ、や、あわわわわわわ」
どうやら、やっと気付いたようだ。よくわからない奇声と共に、首に回された腕が解かれる。併せて、俺の背中は暴力的な幸せから解放された。ほっとしつつも、名残惜しくもある。
「あ、あのですね、ついついですね、ほら、ね?」
振り向いた先の明莉は、腕を複雑に動かしつつ意味不明な弁明をする。その姿を見て、俺は徐々に冷静になっていけた。平静を欠く人がいると逆に落ち着くやつだ。
「うん、わかってるよ」
「わかってないですよーもー」
顔を真っ赤にして横を向く。それも可愛いと思ってしまうのは、彼氏の欲目だろうか。
「今日はもう遅いから、帰りな」
「えーと、はぁい」
本来はいろいろ問題ない年齢なのだが、俺はどうしても節度を求めてしまう。今のところ明莉も理解してくれている。
所詮はただの悪あがきとも言えるこだわりだ。とりあえずのところ、理性が保つ限りは続けようと思っていた。
「あ、明莉」
「はい?」
とぼとぼと帰り支度を始めた明莉からは、いつもの元気を感じなかった。さっきまで考えていた事を伝えたら、笑ってくれるだろうか。
「明日な、駅あたりでブラブラしようか?」
「えーと……」
唇に指を当てて考え込む。まだ思考回路は完全に復帰していないようだ。
「これといって何もないけど、駅ビルなら店もあるし」
「えーと……」
なんだか自信がなくなってきた。喜んでくれると思ってたのは思い上がりだったかもしれない。
「健司さん」
「ん?」
「クレープ食べましょう」
「はい?」
「クレープです! あーんってやるんです!」
強く握りしめた拳とは対象的に、頬は緩みきっていた。さっきの『えーと』は何をしようか考えていた『えーと』だったみたいだ。
「あーんするの?」
「はい! どうあがいても恋人です」
「確かに」
「楽しみなので今から準備します!」
それからの明莉は早かった。あっという間に荷物をまとめると「九時頃来ますね。お寝坊はだめですよ。朝ごはんはあるものを軽く食べておいてくださいね」と言い残し、小走りで去っていった。
今からって、一体何を準備するのだろうか。
その日の夜はあまり寝られなかった。ふたつの選択肢が俺の頭をよぎり続ける。師匠の残留魔力はざわざわ神経に響く。そして何より、明日が楽しみすぎた。遠足前の小学生かよ。
重い問題は少しだけ置いておいて楽しもう。せっかくの休日なんだから、たまには棚上げも悪いことじゃないはずだ。
もやもやと考え事をしていたら、いつの間にか眠れていたようだった。八時に設定しておいたアラームの音で目が覚める。
時間には多少余裕があるが、とりあえず身支度はしておこう。いつものチノパンにTシャツ、その上に半袖シャツを重ねる。それと、フレームつきの眼鏡。我ながら、相変わらず服装に頓着がない。
明莉にダサいと思われないだろうか。さりげなく聞き出してみようと思う。
身支度を終えて、朝食を適当に食べる。時間までぼけーっとしていると、チャイムの音が聞こえてきた。
「おはようございます!」
ドアを開けると、美少女がいた。
水色のワンピースに、薄手の白いカーディガン。髪はシュシュでポニーテールに括っている。あまりの衝撃に、俺は言葉を失った。
「あ、えっと、どうです?」
「うん、似合う」
「ふふっ、嬉しいです」
はにかむ明莉に対し、一言告げるのが精一杯だった。可愛いのはいつものことだが、今日は特にだめだ。
「それは?」
どうにも照れくさく、視線を下に向けた。その際、明莉の左腕に、大きめの四角いバッグがぶら下がっていることに気が付いた。いつも使っている肩掛けバッグとは別に、何か荷物があるみたいだ。
「あ、これですか? えっと、お弁当、作りまして」
「お弁当?」
「あ、えっと、変でしょうか」
明莉は弁当が入っているというバッグを隠すように体を動かし、目を伏せた。そうか、昨日言っていた準備とは、これのことだったのか。
「いや、嬉しい。楽しみが増えたよ」
「あっ……はい!」
俺の一言で、彼女は花が咲いたような表情になる。わかりやすいところも、魅力的なところだ。
「持つよ」
「いえいえ、大丈夫ですよ。これは私が持つのです」
「そうか、じゃあよろしく」
「はい!」
今朝は六月にしては珍しく快晴だ。俺は明莉の右手をとって歩き出した。なんでもないことが、こんなにも楽しい。俺はきっと幸福なのだ。
人の理を捨てるか、魔法使いを捨てるか。師匠の気持ちにどう答えるか。俺は明日までに、大きな決断をしなければならない。どちらに転んでも、俺は大切な人を傷付けてしまう。少なくとも今は自分の感情に従って、長年見守ってきてくれた人を拒絶しようと考えている。
だから今は、今だけは、一時でもこの幸福に身を任せていたいと思った。
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