第42話 言葉にしないと気付かない人もいる

 柔らかく弾力のある感触が、右の頬からゆっくりと離れた。その姿に不似合いな、甘い吐息を残して。

 え、なにこれ?

 突然のことに、俺は呆然とするしかなかった。正面の明莉は、目を見開いて固まっている。右隣の師匠は、潤んだ瞳でこちらを見つめていた。


「なななななななななな、なにごと?」


 硬直が解けた明莉の第一声は、混乱そのものだった。うん、俺も同じ気持ちだ。わけがわからん。


「そのままじゃよ。アカリ、ケンをわしに譲る気はないか?」

「えええええええ、なにを言ってるのよぉ」

「うーん、わかりやすくと思ったのじゃが、逆効果だったようだの。わかった、ちゃんと説明してやろう」


 師匠は立ち上がり、俺の足の間に座ろうとする。小さい女の子が父親に甘えるように自然な動きだった。俺の反応も遅れてしまう。


「いやいや、師匠」

「だめか?」

「だめでしょう」


 そのやり取りを見た明莉は我に返ったようで、激しく首を横に振った。長い髪が揺れ、なんとも形容しがたい良い匂いが漂ってくる。


「ああ、だめか」

「だーめー!」


 渋々といったふうにクッションへ座り直した師匠は、再び語り始めた。今度は昔語りではなく、現在起きていることの話だ。最後まで聞けば、さっきの行動の意味がわかるのだろうか。


「兄だったものを見てな、流石のわしも愕然としたよ。あれは、わしひとりの魔力では祓えないとすぐにわかった。せめて、わしと同格がもうひとり必要じゃとな」

「師匠と同格なんて、この世にいないでしょう」

「その通り。だから、ケンを迎えにきたんじゃよ」


 なるほど、だから共に来いというわけか。俺も五十年ほど修行すれば、師匠と同格になれるらしいからな。実感も自信もまるでないけど。

 落ち着きを取り戻した明莉も、師匠の言い分は理解できているみたいだ。納得したような困ったような、複雑な顔で頷いている。


「つまり、黒影の元凶を断つために俺が必要だということですね?」

「うーん、半分、いや、四分の一くらいは正解じゃが……困ったのう。ここまで鈍いとは」

「ん?」


 これまで語ることのなかった過去を話したのは、決意を促すためだろう。あんまりにも辛い話に、泣きそうになってしまった。俺を連れに来たのならば、はっきりと事情を話す。おかしな性格をしているが、根は誠実な師匠らしいやり方だ。

 さっきのアレはたぶん、重い雰囲気を柔らかくしようとして滑った感じだ。直後は驚いたけど、それも師匠らしくて微笑ましく思う。

 それが鈍いってどういうことだろうか。助け舟がほしくて、明莉へと向き直った。


「健司さん……それはちょっと……」

「え?」


 なぜか明莉がドン引きしている。この空気は、俺が間違っている可能性が高い。しかし、何がおかしいのか全くわからない。


「アカリ、頼む。言っておくれ」

「いいの? 大丈夫?」

「ああ、わしからではこれ以上無理なようじゃ」


 明莉と師匠は、揃って深くため息をついた。


「健司さん。私が言うのもどうかと思いますが、頼まれたので聞いてください」

「お、おう」


 最後の確認をするように、明莉は師匠と目を合わせる。少女は小さく、首を縦に振った。


「フィーナはですね、とっても言いにくいんですけどね、健司さんのこと……男性としてお好きなんですよ」

「は?」


 何を言っているんだ明莉、この人は師匠だぞ。立場も年齢も何もかも違う。俺を男として好きなんてことがあるものか。


「それはないだろう。ねぇ、ししょ……」


 同意を求めようと振り向いた先では、いつの間にかフードを被った師匠が両手で顔を押さえていた。この反応、まさか。


「まじか」

「はい、まじです。ケン、だめだ、恥ずかしい……」


 その言葉を最後に、俺の狭いワンルームは沈黙に包まれた。重いけど、なんだかふわふわした、妙な雰囲気だった。


「鈍すぎる弟子には、全部話さないといけないんじゃろうな」


 永遠とも思えた静寂を破って、師匠が口を開く。


「最初はな、後継者を探すのが目的じゃった。魔力を作って無理やり生きながらえている体じゃからな、継いでくれる子がほしかったんじゃよ」


 しかし、師匠や師匠のお兄さんほどの才能を持った人間と出会うことは、長年なかったらしい。


「だからな、ケンを見付けた時は驚いたよ。兄さんが生まれ変わったのか、なんて思いもしたのう」


 後継者として俺に目を付けた師匠は、女子高生に扮してスカウトした。男は全員女子高生が大好きだと思っていたそうだ。確か当時は《キョウコ》なんて名乗っていたっけ。結局、その名前で呼んだことはなかったけど。

 あの時の師匠には、いきなり女子高生に『弟子になってくんない?』と言われたサラリーマンの気持ちを考えてほしい。正直、最初は犯罪の臭いしかしなかった。


「最初はただ利用しようとしていた。それだけじゃったよ。でもな、迂闊にもだんだんと惹かれてしまってな……気付いたらケンの事ばかり考えていたよ。あの頃は恋人がいたから、表に出さないように必死じゃった」


 修行中は麻衣子と付き合っていた。何度かバレそうになった時もあったが、師匠のデタラメな魔術で誤魔化し続けた思い出がある。


「ケンには悪いが、恋人と別れたと知った時は小躍りしたよ。それからな、いろいろアピールし続けたが一向に気付かれなくてな」

「なるほど、いや、なるほどなのか?」

「ほら、全くわかっておらん」


 俺が魔法使いになった後、師匠と顔を合わす頻度はかなり減った。女子高生からキャリアウーマン風になった師匠を見るのは、年に一回くらいになっていた気がする。

 麻衣子と別れた辺りからは、三ヶ月に一回くらいは会いに来てくれていた。今思えば、その頃からさり気ないボディタッチが増えたような気がしないでもない。当時の俺は今よりも更に自分に自信がなく、師匠の気持ちに気付くことができなかったのだろう。


「そうこうしてたら恋人ができたと噂に聞いて、とっても慌てたというわけじゃ。アカリはこの鈍感をどうやって落としたんだ?」


 半眼になった師匠が明莉に詰め寄る。ひたすら俺が槍玉に上がっているだけなのは、きっと気のせいじゃない。


「ずっと好き好き言い続けたら、わかってもらえたよ。あと、和食を中心に胃袋を」

「あぁ、そういうやつか……こやつにはそこまでしないといけなかったのか」

「うん、はっきり言わないとわからない人だからね」

「そこは、わしの落ち度じゃな。ケンがここまでだとは思いもよらなかった。しまったのう」

「危なかったよ。健司さんが鈍感で助かったと思ったのは二回目だよ」


 フードを被ったまま頭を抱える師匠と、ドヤ顔でふんぞり返る恋人。賑やかになったのはいいが、俺には立つ瀬がなかった。

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