第32話 固定観念を崩すのは難しい
約束の当日、俺はひたすらゴロゴロしていた。祝日のため本業は休みで、珍しく副業の依頼もない。
隣に住む女子大生は用事があるそうで、大学まで出かけている。夕方までには戻るそうだ。
自分用のついでと言い張り持ってきてくれた弁当は、当然のようにとても手が込んでいた。鮭の味噌漬け焼きなんて、手作りする子はそうそういない。
彼女の厚意をありがたく頂いた後は、本当に何もやることがなくなってしまった。昼前まで寝ていたため、眠気もやってこない。
例のイタリアンレストランは、ディナーでちょっといいコースを予約してある。ただ待っているという時間は、どうにもこうにも落ち着かない。
「あー」
寝転んだまま、無意味な声をあげた。よくよく考えると、俺はだいぶ空っぽな人間だ。
平日の昼間は会社で働き、夜になれば疲れて眠ってしまう。会社が休みの日は魔法使いの仕事でバタバタしているか、魔術の反動で寝込んでいる。
そんな生活が続けば、他にやることなど作れもしない。さらに、地方から出てきているため、友人と呼べる存在もここにはいない。
その結果、何もない日は本当に暇なのだ。
魔法使いという副業を選んでしまったため、それ以外を捨ててしまうことになったのは仕方ない。それなのに、暇になるとついついネガティブなことを考えてしまうのは俺の悪い癖だ。わかってはいるけど、止められるものでもない。
眠くもないが、仕方なく目を閉じてみる。眩しい程に明るい笑顔が浮かぶ。不覚にも、無意識に彼女のことを考えてしまっていた。
「あー、くそう」
俺はどうやら、かなり惚れているらしい。言い方を真似るなら『落とされた』ということになる。
二十歳近くも離れている子に対して、こんな重めの想いを抱く。俺の中の常識が、それは悪いことだと今でも強く主張している。
デートを申し込んでおいて腹を括りきれてないのは、そんな固定観念が消えないからだと思う。それを話したら、あいつはきっと朗らかに『大丈夫ですよ』なんて笑い飛ばしてくれるんだろう。
そんな子だからこそ、俺みたいな男のために未来を犠牲にさせたくないなんて、しつこく考えてしまう。しかし、拒絶するのも誠実とは言えない。
ピンポーン
解答がない思考のループに陥っていたところ、玄関のチャイムが鳴った。山崎が大学から帰って来たにしては、少し時間が早い。
それ以外に俺を訪ねて来るとしたら、思い付くのは瀬戸かセールスくらいだ。どちらもめんどくさいが、思考の切り替えにはちょうどいい。
「はいはーい」
特に考えず、鍵をかけていないままのドアを開く。そこには、全く予想もしなかった人物が立っていた。
「明莉!」
満面の笑みを浮かべた壮年の男性が、山崎の名を呼んだ。背はすらっと高く、白髪混じりの短髪がとても似合う。ナイスミドルという言葉がぴったりくる印象だ。
その隣では、男性と同年に見える女性が控えめに微笑んでいる。並び立つ姿に違和感がない所から、夫婦だと感覚的に理解できた。
「あ、えーと、どちら様、でしょう?」
「あ?」
「え?」
だがしかし、俺と目が会った瞬間、二人の穏やかな表情は硬直した。俺も合わせて計三人、無言の時間が流れた。
「お、お前……」
沈黙を破ったのは男性だった。整った顔がだんだんと紅潮し、眉がつり上がっていく。どう見ても怒りの表情だ。
隣の女性は困ったような、それでいて諦めたような複雑な顔になっている。
これは、大変まずいやつだと直感した。『明莉』と呼びかけたこと、俺に対して怒っていることから想定できるのはただひとつ。
俺の予想は二人の外見が裏付けている。意志の強そうな瞳は男性に、穏やかな雰囲気を作り出す口元は女性に、とてもよく似ているのだ。
たぶん、この夫婦は山崎のご両親だ。
「えーと……」
「明莉の部屋で何をしている!」
低く、力の入った怒声が俺に突き刺さる。ただし、近所に配慮してか音量は控えめだ。
思わず身をすくめてしまう。娘さんに邪な想いを抱いてすみません、と俺の内心が叫んでいる。
いや、待て。今この人は『明莉の部屋』と言った。しかしここは俺の部屋だ。もしかして、部屋を勘違いしているのではないだろうか。
このアパートは部屋番号が書かれたプレートの位置が中途半端で、左右どちらを指しているのかわかりづらい。たまにピザの配達が間違うこともあるくらいだ。
「あの」
「あ?」
俺より頭半分ほど高い身長から、すごい眼力で睨まれる。俺は恐る恐る話を続けた。
「もしかして、お隣と間違えていませんか?」
「何だと? ここは二○三号室だろうが」
「いやいや、ここは二○二ですよ」
「そんな言い逃れを……」
一歩下がった男性が、部屋番のプレートを見直した。怒りつつも話を聞いてくれて助かった。
しばらくプレートを見つめていた男性の表情が、ゆっくりと落ち着いていく。それに合わせるように、女性も無表情に近付いていった。
「ああ……」
「わかってもらえましたか?」
「これは……申し訳ない」
「失礼しました」
勘違いに気付いた夫婦は、揃って大きく頭を下げた。
「いえいえ、わかって頂けたらそれで」
「本当に、申し訳なかったです!」
「すみませんでした」
「こちらこそ、すみません」
間違っていたのは向こうとはいえ、こうも平謝りされると逆に困ってしまう。それに、娘さんに対していろいろあるのは事実なのだ。
本来謝るのはこちらの方かもしれない。そんな後ろめたさもあり、俺も頭を下げてしまう。
「お父さん、何してるの! お母さんも!」
三人でペコペコ頭を下げ合っていると、少し高めの声が聞こえた。もう聞き慣れてしまった、山崎の声だ。
「おお、明莉」
「明莉ちゃん」
二人が声の方を向き、嬉しそうに名前を呼んだ。ご両親のその態度は、彼女をとても愛していることを証明するようだった。
「部屋をお隣さんと間違えてしまってな、大変失礼なことをしたと謝っていたんだよ」
ほころんだ顔のまま、男性が事情を説明する。山崎が帰ってきてくれてよかった。正直なところ、ドアを閉めるタイミングを見失っていたのだ。
ここは親子水入らずとして、俺は退散しよう。
「では、これで」
「うちの両親がお騒がせして、すみませんでした」
「いや、いいよ」
頭を下げる山崎に軽く手を振り、俺は部屋に戻ろうとした。
「あ、健司おじさん、ちょっと待ってください。せっかくなので、紹介させてください。当初の予定よりちょっと早いですけど、うん、大丈夫です」
「え?」
「こちら、父の
にっこりと笑った山崎は、背の高い男性と小柄な女性を紹介してくれた。俺の混乱はほぼ無視されている。
「お父さん、お母さん、彼が里中 健司さん。前に話したでしょ? 好きな人ができたって」
「え?」
「は?」
「まぁ……」
大変スムーズな流れで、俺のことも正直に包み隠さず紹介してしまう。山崎以外の三人は、同時に驚きの声をあげた。
まさかこうなるとは、流石に予想できなかった。俺はたぶん、この期に及んで山崎 明莉という子を甘く見すぎていたのだと思う。
「健司おじさん……好きな人……」
「ええと……」
長身から放たれる視線に、返す言葉を失ってしまう。山崎の言葉を聞いてしまえば、こうもなるだろう。なんとも言えない圧力が、俺に向けて襲いかかってくる。
それともうひとつ、魔法使いとしての感覚を刺激するものがあった。ほんのわずかではあるが、間違いない。
この揺らいだ魔力は、黒影のものだ。
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