第9話 吐くほど食べてはいけない
どれくらい時間が経っただろう。窓のない廊下は、時間の流れを感じさせない。体感では二時間くらいだろうか。
未だ、部屋の奥からはガサガサという音だけが聞こえている。一体どれだけの菓子を与えているのだろう。魔法使いに依頼する前にやれることがあったのではないか。
「ふぅ」
余計な時間があると、無駄なことを考えてしまう。俺は黒影を祓う魔法使い。人様の事情に踏み入るのは、仕事上必要な時だけだ。
目を階段に向けると、こちらを見ている山崎さんと視線が絡んだ。控えめに手を振って来る。俺は軽く手を上げて応えた。
「そろそろ、どうだい? 話す気にならない? おじさん筋肉痛が酷いんだよ」
「そんなの、知らない」
「そりゃ知らないわな」
完全に無視というわけではなく、一応は反応を返してくれる。たぶん、そんなに悪い子ではない。
黒影の影響で、食欲が止まらないのだろう。そして、菓子に限定しているのにも何か理由があるはずだ。
まぁ、本人から語ってくれなければ意味がないので、それも余計な思考ではある。
「私、お菓子好き」
何かで気が変わったのか、向こうから話しかけてきた。ようやくかと思いつつも、なるべく平然とした口調で返す。
「そうか」
「だから、食べてる」
「そうか」
そこで話が途切れる。会話ができただけでも進歩だ。ゆっくり付き合おう。
「……本当はしょっぱいのより甘い方が好き」
「うん、そうか」
「でも、今はしょっぱいのばっかり食べてる」
「そうか」
約束通り、否定も肯定もしない。相づちは欠かさず、話してくれるのを待つのみだ。
「お母さん、私が言うと、お菓子たくさん持ってくる」
「うん」
「でも違う、違う」
「そうか」
それっきり、また裕子さんは黙った。また、袋の音が再開した。
違うというのが、今回の答えなんだろう。その先は、そうそう簡単に出るもんじゃない。再び静かな時間が流れた。動かないで済むのは、とっても助かる。
「おじさん、いる?」
「いるよー」
そろそろ気を許してくれただろうか。そうでなくても、呼びかけてくれたのは単純に嬉しい。
「鍵開けるから、入って」
「わかった」
言葉通り、ドアからカチャリと音がする。
俺は魔法で立ち上がり、ゆっくりとドアノブを回した。
「お邪魔します」
入った先は酷いものだった。部屋は床が見えないほど、菓子の袋や食べこぼしが散乱している。しかし、それらが些細なことに思えてしまった。
その理由は、部屋の中心に座る少女の姿だった。顔は油と涙にまみれている。風呂にも入っていないのか、フケだらけで酸っぱいような臭いもする。
とても思春期の少女とは思えない。食べること以外は何もしていなかったのだろう。
「入れてくれて、ありがとう」
「うん」
俺が入っても、スナック菓子を食べる口と手は止まらない。周りには、吐いたような痕跡も見えた。異臭がする原因のひとつだ。
「おじさん」
「なんだい?」
「助けて」
止まらないヨダレと共に口から出たのは、心の叫びだった。だから、俺は答える。
「もちろん」
「うん」
少女は少しだけ、笑ったようだった。
「でも、俺が君を助けられることは、黒影を祓うことだけだよ。あとは、君とお母さんで助からないといけない。いいね?」
「うん」
「じゃあ、裕子さんは本当は何が欲しいか、教えてもらえるかい?」
裕子さんが息を飲むのがわかる。言いたくないこともあるだろう、知られたくないこともあるだろう。
でも、助かりたいと言ったのならば、少しは頑張らないといけない。無理強いはしないが、背中を押してはやりたい。
「私、お母さんの作ったケーキが食べたい」
意を決して本当の欲を口にした。きっと彼女にとっては単純で難しいこと。詳しくは聞くつもりもない。
うん、それでいい。
「あああああああああ」
菓子の残りカスと共に、裕子さんの口から黒いものが溢れ出す。大きさは、この前の男から出たものよりも小さい。
「消えろ」
俺は掌をかかげ、呟いた。一瞬の光と同時に、少女を蝕んでいた黒影は消滅した。
念のため、周囲を見渡す。前回のように祓い残しがあったら大変だ。
うん、大丈夫だ。俺の仕事は完全に終わった。あとは、家庭の問題だ。
「あぁ、食べたくない……食べないでいい」
「君に取り憑いていた黒影は祓ったよ。これからどうするかは、君が決めるといい。俺は否定も肯定もしないよ」
「……うん」
裕子さんは、立ち上がると食べカスを撒き散らしながら部屋を出て行った。「お母さん! ごめんなさい」と呼びかける声が耳に届く。
「さて、帰るか」
ゴミだらけの部屋から何とか脱出すると、山崎さんが待っていた。
「ふふふー」
「なに?」
「なんでもないですよー」
「なんだよ」
意味のわからない笑い方をしている助手をすり抜け、階段を下りた。一階の廊下から見えるリビングでは、母娘が泣きながら抱き合っていた。
「黒影は祓いました。我々はこれで失礼します」
大きめに声をかけると、二人は気付いてこちらを向いた。
「ありがとう、ございました」
「おじさん、ありがとう」
深々と頭を下げられ、気恥ずかしくなった。この感覚もあまり慣れないから、依頼主と対面での仕事は苦手だ。
俺も一礼をして、小林家を後にした。彼女たちが本当に助かるのかどうかは、俺にはわからない。魔法使いにできることは、黒影を祓うことくらいだ。
「さ、帰ろうか」
「はい!」
頼りになる助手を引き連れ、カクカクしながらの帰り道だ。実はこの魔法の効果時間もそろそろ限界に近い。アパートまで保つだろうか。
「里中おじさん」
「ん?」
「さっき言いかけたことなんですけどね」
「うん」
「惚れ直しました。やっぱり結婚しましょう」
「えぇー」
「うわ、酷いー」
可愛い助手をからかいながら体を歩かせる。空は茜色が綺麗だった。
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