『小學句讀』序(2)
『小學句讀』序
昔し二帝三王、我が朝、一祖四宗の道統、聖天子、
ー 『示蒙句解』による注 ー
・この序はじめに、『小學』の書の、世にをこなはれるよし(由)をとく。「二帝」とは、帝
・「我が朝」とは、陳選がそのかみの明の本朝を云う。「我が」とは、したしみ(親しみ)て云う詞である。一祖四宗とは、明のはじめより、代々の天子の廟號である。始めて天下を取りたるを「祖」と云う、これにつぎて天下を治めるを「宗」と云う。「一祖」は太祖、姓は
・「聖天子」とは聖德の天子である、陳選がその時の天子をさした。その名は
・「士」とは、さむらい(侍)である、學びてみやづかえ(宮仕え)する者を云う、即ち學者のことである。「實學」とは、「實」はまことである、人倫をむね(旨)として、理をきわめ(究め)、身をおさめる(修める)を、「實學」と云う。
・「空文」とは、「空」はむなしき(空しき)であるのである、「實」の字に對して云う、むなしき文章のみを、よみおぼえ、かきならいて、身のため世のために、實用がないのである。されども科擧に應じて、官途にすすむためには、文章の學はたより(便り)よきために、人、皆なこれにはせ(馳せ)おもむきて、つとめるのである。
・「道化」とは、道德をもって、人民を教化することを云う。士たる者、實學をわすれて、空文にはせたるは、これをあげ用いて、官職をさずくれども、君の道化の
・「慨然」とは、なげく詞である、是れはほめてなげくのである。
・「詔」は、天子のおおせられる詞である。
・「從事(事に從う)」とは、その事につきしたがいて、これをつとめる義(意味)である。云う意は、天下の士たる者、みなまず小學の教えにつきて、まなぶべきである、ということである。小學の道は、
・「大學」は、大人の學である。大人のまなぶ所は、その事大いなるために、大學と云う。その道は、明德を明らかにし、民を新らたにして、至善に
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