「小學題辭」(10)

「小學題辭」

 、遠おく、人、ほろび、經、そこなわれ、教え、すたれ、蒙養もうようただしからず、ひととなってますます浮靡ふひなり


 きょう善俗ぜんしょく無く、世に良材りょうざいし、利欲、紛拏ふんだし、異言いげん喧豗けんかいす、



 ー 『示蒙句解』による注 ー

 ・「世」とは、いにしえの世を云う。「人」とは、聖人を云う。


 ・「經」は、易・書・詩・春秋・禮・樂の六經りくけいをさしている。六經りくけい秦火しんか(秦の焚書ふんしょ)にそこなわれて、まったからず(完全でない)。小・大學の教法もすたれておこらない(興らない)のである。


 ・「蒙養もうよう」とは、童蒙どうもうの時より、教えやしなうことを云う。小學の教えがすたれたるがために蒙養もうようはただしく(正しく)なくなった。


 ・「長」とは、おとな(大人)しくなることを云う。「」は、輕薄けいはくである(という)義(意味)である、「」は、華麗である(という)義(意味)である。大學の教えがすたれたるがために、成長していよいよ浮靡ふひであるのである。


 ・「郷」は、さと(里)である、人、皆なあしく(悪しく)なりたつ(経つ?)ために、いずくの郷里にも、善き風俗がない。


 ・「ざい」は、「さい」と同じである。また世間に良き才能の人がない。けだし(思うに)、風俗があしく(悪しく)なってしまったために、人才がおのずからいできたらない。


 ・「利欲」とは、「利」はむさぼるである、物欲と同じである。「紛」は、みだれるである、「」は、ひく(引く)である、利欲のならわしが、みだれてそれぞれ引くのである。


 ・「異言」は、異端の言うことである。「異端」とは、聖人の道にあらずして、こと(別)に一端の法をたてた(立てた)のを云う。佛氏・老氏のるいが是れである。「けん」は、かまびすし、「かい」は、あいうつ(撃つ)である。異端の說がかしがましくそれぞれうつ(撃つ)のである。けだし(思うに)善・惡・邪・正ならびたたず、教法すたれ、風俗おとろえるために、利欲はさかんに、異端はおこるのである。この八句は、後世の教學があきらかならない害をいっている。



 ー 『小學句讀』の注への『示蒙句解』による注 ー

 ・「殘缺」はそこねかくる(欠ける)である。「淳厚じゅんこう」は、あつい(厚い)ということである。「粹美」は、よき(善き)ということである。

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