「小學題辭」(8)

「小學題辭」

 小學のみちは、灑掃さいそう應對おうたいし、入りては孝ありでてはきょうあり、動くにもとることることし、


 おこなって餘力よりょく有れば、詩をしょうし書を讀み、詠歌えいか舞蹈ぶとうして、思うにゆることることし、



 ー 『示蒙句解』による注 ー

 ・方は、法である。


 ・(灑掃應對の)字義は前に見えている。


 ・「孝」は、よく父母につかえることを云う。「恭」は、うやまうである、よく兄・長をうやまうことを云う、「出」「入」の字、あながちに(おおよそでの)わけ(理由、分け、ともとれる)はない、ただ父母は兄弟よりも、なおしたしき(親しき)ために、內として「入」と云い、また年長の人は、外にもあれば(「出」というの)である。


 ・「もとる」は、たがう(違う)義(意味)である。およそ身のうごき(動き)はたらく(働く)わざ(技)、灑掃・應對・孝恭に、たがうことがない。


 ・「餘」は、いとま(暇)、「力」は、つとめるちからである。つとめのいとまを餘力と云う。灑掃・應對・孝恭をおこないて、そのひまある時である。


 ・「しょうす」とは、そらによむ(暗記する)ことを云う。「詩」は、『詩經』である、三代(夏・殷・周)の詩をしるしている、詩はよく人情にかなうために、これをしょうする時は、その義に感じやすくして、良心がおこる。「書」は、『書經』である、これをよむ時は、二帝三王の、心法・治道をしる。また『詩經』を引きてものをいう時は、しるし(験)がある、法があっていやし(卑し)くないのである。


 ・「詠」「歌」は、皆なうたうことである、「舞」は、まう、「蹈」は、ふむである、是れは樂をならうに、或いは口にそのうたをうたい、或いは手にそのまい(舞)をまい(舞い)、足にその拍子をふむのである。けだし(思うに)樂は六律八音をしらべて詠歌舞踏にあわせる、これをみ(見)、きき(聞き)、かなでる(奏でる)者、氣血めぐりて支體したい(体)やわらぎ、穢惡かいあくきえて邪僻じゃへき(癖?)とおざかる。その性情をやしない、氣質をへんずるその功は大いである。


 ・心に思いはかる(量る)こと、詩・書・歌・舞のほかに、こえ(超え)いずることがない。この八句は、小學の教えの、根をやしなふという義をいっている。

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