『小學句讀』序(11)

『小學句讀』序

 選(陳選が自らをいう)、學ぶことおそし、道、いまだ之れを聞かず。みことのりをたてまつりて來たって中州の教えをべ、諸士の間に周還して、一朝の義、有るを以て、故に敢えて是の書に句讀して、相いともに講じて之を行って、成るにいたらんことを期して、以て聖天子の人をおこすの盛意にかなう。四方の士のごときんば、則ちいずくんぞ敢てせん。


 成化せいか癸巳きし、五月望日ぼうじつ天臺てんだいの陳選序す、



 ー 『示蒙句解』による注 ー

 ・是れより以下は、自ら小學に句讀するよし(理由)をとく。「學也晩(學ぶことおそし)」とは、年たけて學問したということである。


 ・聖人の道を、いまだききしらないということである、皆な是れらは謙退(謙遜し退く)のことばである。


 ・「來る」とは、都より來たのである。總とは、あつめてくくる義(意味)である。中州は、明の河南省の總名である。河南は、昔し周の成王の時、天下のまん中の地をはかりて、都をたてられた、洛邑らくゆう(洛陽)の跡なるために、中州と云う。陳選は明の成化の初めに、河南の提學となった。これは一道(道とは行政区画)の諸國の教えをつかさどる官の名である。云う意は、我はいまだ道をきかないけれども、天子の詔をうけたまわり、やむことを得ずして、ここに來りて、中州の士民の教えを、すべつかさどるということである。


 ・「周還」は、めぐることがある(ということである)。提學の職たるをもって、常々諸生の間に、たちまわるのである。


 ・「一朝」は、一旦(旦は朝のこと、一日の朝の間)の義(意味)である。諸士の間に、周還するをもって、しばらくそれぞれしたしむ恩義があるのだ。


 ・この「故」の字、上の「以奉詔(詔を奉りて…以て)」と云うより以下の文をうけて云っている。「敢て」とは、はばからずと云う義(意味)である、「是書(この書)」は、小學の書である、


 ・「講ず」とは、理をあきらかにする義(意味)である。諸士とあいともに、その理を講明し、その事を踐行してということである。


 ・「期す」とは、まちのぞむ義(意味)である、その講じて行う所、成就するにいたらんことを期するのである、


 ・この「以」の字は、上の「故敢(故に敢えて)」と云うより以下の文をうけて云っている。「作人(人をおこす)」とは、風俗のあしきを、ふりおこして、あらたによくするを云っている。即ち「民を新たにする」という義(意味)である、「盛意」とは、盛はさかんであるということ、よき意をほめて云っているのである、そのかみ(天子)が空文をおさえて、實學をあがめらるること、是れは人をおこすの盛意である。今、我れが諸士と共に、學業を成さんとするのは、これをもって、今の天子の、人をおこさるる盛意に、あいかなわしむるといっている、これは即ちまた道化をたすくるのことである。


 ・天下四方の學士のためなどには、ということである


 ・「惡乎(なんぞや)」とは、なんぞと云う義(意味)である。なんぞあえて、この句讀をもって、なべての(並べての、総じての)人を教えんと思ったであろうか、ただこの一處(中州、河南)にてとの志であった。四方の士のためにとて、句讀したのではない、というふうに、是れも謙退の詞である。


 ・成化せいかは、明の憲宗けんそうの年號、癸巳きしはその第九年のことである。


 ・望日は、もちの日である、月の十五日を云う。


 ・天臺は、陳選の生國の縣(県)の名、明の浙江省臺州府の內にある。陳は姓、選は名、あざなは士賢、克菴こくあんと號す、その官は廣東左布政使にいたる。難にあって卒す。後に光祿卿を贈り、恭愍きょうびんおくりなす、序すとは、この序をつくったということである。

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