8
いつの間にか、日は落ちていた。買い物を終えた僕らは家路に就いていた。家の方角の関係で、四人が三人、三人が二人と数を減らしていく。最後に残っていたのは奇しくも神谷だった。
彼女と横並びで歩く。
たった一日だけなのに、歩幅の合わせ方が鈍ってしまった。あるいは、昨日の一件が、未だに尾を引いているのかもしれない。
しばらくの間、無言だった。互いが互いに牽制し合うような、ピリピリとした緊張感が漂っていた。
昨日は心地よかったはずの静寂が、今となっては息苦しい。
僕へ向けた最後の言葉を思い出す。
『私たちの間はさ、そういうの、止めにしない?ただ言葉を交換するだけの会話は飽き飽きなの』
自分を自分に虚飾する必要のない関係。
それを彼女は求めている。
確かに、そんな関係があった方が楽だろう。いつも他人の目を見て、顔色を窺って。そんな風に生きるのは当たり前に息苦しい。
では。
僕の振る舞いを虚飾だというのなら、僕がこの十八年の人生で積み上げてきたものは、何だったんだ。
全てが虚飾だというのか。
ギリッと、音が脳天に響く。程なくしてそれが自分の歯噛みの音だと気が付いた。
と。
「昨日のこと、気にしてるの?」
突然だった。
思わず神谷の方を見る。昨日とは別人のように優しい目をしている。
「まあ、多少は」
可もなく不可もない応対をする。
そんな目をするなよ。
僕がずっと悩んでいるのが、馬鹿みたいだろ。
「冷めてて、見下してるって言ったけど、それが良くないって言うだけの為に言った訳じゃないよ。良い所でもある」
その言葉に、脊髄反射で答える。
「短所は必ず長所にもなるってことだろ」
そんなこと、知っている。
もはや使い古された言葉だ。
世間では、世界では。
自分の短所ではなく、長所を見つけられるようになりましょう。自分の善い所を愛しましょう。
なんて。
あんな理屈の何に肯けるんだ。
良し悪しなんて、自分一人の絶対評価だ。
他人と比べることで、自分の価値観に歪みが生じていないかどうかを吟味することはある。
だが、最後に決めるのは他でもない僕だ。
神谷の良し悪しは神谷自身が決めるし、黒川の好き嫌いは黒川が決める。
個人に委ねられた正解は個人の中にしかない。
だから。
他人の正解と自分の正解が食い違う時、いろんなことをして、誰もが誤魔化している。
倉科が良い例だ。自分の天文好きを殺して、お洒落の会話についていく。彼女の表情を思い出す。
プラスの感情を僕は見つけられなかった。
彼女の解は『自分の好みを認めてもらうことを諦める』なのだろう。
誤魔化しが効くなら、まだいい。
何か、手の届かない自分の願いや欲を、その他のことで代替するなんてことは当たり前に起こっている。
僕らが欲しているものは物質ではなく、感情なのだから。
テストで悪い点を取った黒川は、僕とカラオケに行って、気分転換をした。
こういうときもあるよな。
テストの点だけが人間の価値を決めるわけじゃねえよな。
なんてことを言って。
天文同好会で観測を決めた日があいにくの曇り空だった日は、書籍の中の写真で、自分たちを納得させた。
綺麗だね。
生で見たかったな。
なんてことを言って。
誤魔化しばかりだ。
代替物で納得させている。
望んだものはこれなのだと、言い聞かせている。
誰もがそんな奴らばかりだ。
勿論、僕も。
だから。
誰が何と言おうと、僕の容姿は凡庸だし、成績は平均的だし、特別不幸な生活を送っているわけではない。
他人からの『お洒落をすれば格好良くなる』みたいな美辞麗句を聞いても、納得できないのならば、僕の解は『お洒落をしても格好良くはない』しかありえない。
評価は、僕の感情を代替できないのだから。
僕自身の感情自体は誤魔化しが効かないのだから。
「まあ、それもそうだけど」
神谷の声は、普段よりも幾分声色が低かった。
彼女が言いたかったことを、僕が先に言ってしまったのだろう。ちらりと神谷の方を見ると、唇をツンと尖らせている。
返す言葉が無いのだろう。
だが、本心は隠さなかった。
彼女が望んだ会話はこんなものだったか。
血の通った会話とは、こんなにも鋭利だったか。
月光が僕らを照らし出している。足音が宵時の道路に単調に鳴る。
沈黙に耐えかねたのは、僕だった。
「すまん。なんか」
酷く不細工で曖昧な言葉だった。
自身があまり良い発言をしなかったという実感だけが、残っていた。
何が悪かったのか。
そういうのを考えずに、曖昧にして濁した。
「文弥がそうやって言動を遮ってくるの、珍しかったから、少し驚いた」
以前まで、そういったことは、確かになかった。
「何度も考えてきたことの一つだったから。それに、実の無い会話を止めようって神谷が提案してくれてたから、顔色を窺うのを止めたんだ」
いつもなら。
黒川と話している時なら。
この言葉を発することで、不快にならないか。とか。あれこれ吟味してから言葉を発することが多い。
だが、神谷はその箍を外して良いと言ってくれた。
だから僕はあんなにも素早く応えた。
「長所と短所は紙一重。これって、そんな当たり前なの?」
これには自信をもって肯ける。
神谷の目を見ながら首を縦に振る。
言葉は要らなかった。
「大抵の人はそう言うことで、慰められた気になってくれていたからさ」
「そいつらはさ、きっと、ただ言って欲しいんだよ。貴方はダメじゃないよ。いい所もあるよ、なんてさ。分かりやすく甘美でインスタントな慰めが欲しいだけなんだ」
きっとそうなのだろう。
僕だってそんな日もある。
だけど。
「だけど、僕はそんなものは求めていない。神谷の言葉は神谷から見た事実だ。そういうものをかき集めることを、僕は望んでいる」
この言葉は本当だろうか。疑惑はある。だが、反証材料を僕は持っていない。
言い聞かせている気もする。
「かき集めてどうするの?」
「逐一ふるいにかける。僕の物にしたいなら取り込むし、僕の物にしたくないなら一旦受け取って、その後棄てる」
その言葉に、彼女はまた、笑っていた。だが、今度は柔らかな笑みに見えた。
「馬鹿にされた時、嫌じゃなかった?」
自分の本音すら分かりやしないのに、訥々と僕は語る。
「この前のは、嫌とは異なる感情だった。そもそも、僕は嫌な気分にさせないように気を付けるっていう考え方が嫌いだ」
その言葉に彼女は首を傾げる。
これは、僕の美的感覚に合う考え方の一つだ。
「自分の述べた意見に対して湧きあがる相手の感情を気にするなんて、馬鹿げているだろ」
まだ、彼女の目は猜疑心に覆われている。
多分こうなるだろうとはわかっていた。
けれど、僕は続けるしかない。もう後戻りは出来ない。
足元に視線を落とした。
「他人の評価は口にした瞬間事実になる。勿論、多少のバイアスはかかっている。だけど、そういう風に観測したという事実は伝わる。それに心を痛めるも痛めないも、評価される側の勝手だろ。勝手に聴いて、勝手に傷ついて、何がしたいんだよ」
化膿していたおぞましい感情を、吐き出す。
彼女の顔を、表情を見ることができない。
俯いて、自分のアンサーを今更のように反芻する。間違っていないだろうか。傷つけていないだろうか。
先の理論と矛盾していることを自覚しながら、尚も言う。
「傷ついたなら無視しろよ。傷ついて、それでも一緒にいたいなら、傷を減らすように努力しろよ」
哂っちゃうだろ?
こんな自分。
神谷はどんな表情を浮かべているのだろう。
こんな話を友人としたことは無かった。どの友人の表情サンプルも持ち合わせていない。
だから、分からなかった。
「誰しも傲慢すぎるんだよ。僕も、お前も。他人の感情を勝手に分かった気になって、一喜一憂して。僕らの感情なんて、絶対に一致することが無いのに」
怒鳴るように、言った。
後悔が押し寄せる間もなく、反駁が響く。
「そんなこと、ないよ」
その声は切実で、聞いたことのない声色だった。理屈では割り切れない、切々とした感情を含んでいた。
それに僕は頷きたかった。だけど、ここで頷くのは、彼女を肯定するのは、僕の信じたものに対する背信行為だった。
だから、代わりに僕は呟く。
小さな声だけど、聞こえないことは無いだろう。
彼女の為に。
そんな、分かりやすい嘘を心内で弄して、僕は語る。
「僕らは似たような感情を持ち寄ってさ、それに共通の名前を付けるんだ」
卒業式で僕が泣けなかった理由。
その答えがきっとこれだ。
人が別れを惜しむとき、それを悲しみと呼ぶのだろう。悲しみの構成要素には『涙を流す』が入っている人もいれば、入っていない人もいる。
卒業式らしさの構成要素に『別れの悲しみを楽しさで紛らわす』が入っている人もいれば、入っていない人もいる。記念写真を撮っていた人たちはきっと紛らわしていた側の人たちなのだろう。
そのどちらもを構成要素に持ち合わせていなかったのが、僕だ。
僕はあの日、きっと、悲しかったんだ。
あの悲しさを共有したかった。
だけど、世間の『悲しみ』と僕の『悲しみ』には大きな構成要素の隔たりがあった。
世界と僕は、言葉面だけは同じで、中身の違うものを有していた。
「言葉という額面に感情を閉じ込めることでさ、色々なものが切り捨てられるんだよ。相手に理解されない思いとか、相手の中に無い考え方とか、些細で気が付くことが出来ないものとか。だから、僕らは感情に名前を付ける度、伝えられないものを殺しているんだ」
完全一致する感情を共有は出来ない。
それが当たり前だ。
僕だって、以心伝心できる家族や友人が欲しい。仲の良い人の感情を寸分たりとも漏らさず、理解したい。
けど、無理だ。
ここに理屈は無いけれど、相手の感情の総てを分かるなんて、酷く傲慢だ。
そんなことができるなら、僕は神様にだってなれそうだ。
だから、僕らは。
「だから、僕は傷つけることを気にするなんて、無理だ。絶対にどこかで傷つける。絶対にどこかですれ違う。すれ違いを恐れて言葉にする度に、ディテールが失われる」
失われるものが生まれる度、一致しないものを伝えている。
こんな言葉で何が伝わるのだろうか。
この言葉すら、正確に伝わっただろうか。
間違えて伝わらないように、細部にまで気を遣った。
それでも、所詮、言葉を介した感情伝達だ。
きっとどこかですれ違う。
僕の極小の感情を諦めながら、犠牲を払ってでも大枠を伝えたくて、言葉を紡いだ。
伝え方は正しかっただろうか。
世界における正しさを証明するのは、きっと不可能だ。けれど、神谷にとっての正しさは神谷が教えてくれるはずだ。
無言の時間が続いた。
宵闇の中、彼女の答えを待っている。
以前と同じようなことの焼き直しだ。無言を心地よいと感じている。
前回は、僕だけが思い込んでいただけだけど。
だが、今回は実のある時間なのではないだろうか。
彼女の答えを待ちながら、僕らは歩く。
冗談みたいに大きな月が僕らを照らす。星々が霞んで見えてしまう。ちょっとは自重しろよ。と思いながら、空を眺める。
電柱の脇を通る度に、二人分の影がくるりと回る。
その解は唐突だった。
神谷の自宅前に到達したときに、前触れなく彼女は言った。
「だから、文弥は優しいんだね」
とだけ。
訳が分からなかった。
追求をしようとする前に、神谷は門の中に入ってしまった。あっけにとられたまま、僕は彼女の後姿を見つめる。
神谷が玄関の把手に手を掛けながら、振り返った。
「また、星でも見ながら話そうよ。夏休みにでも」
答えが知りたかった。
今すぐにでも。
理解が追い付かなかったのは一瞬だった。
感情が一致しないのは当然で。
それでも僕らは理解しようと努力して。
言葉が駄目なら、他の手段で。ということだろうか。
僕が望んだ答えのカタチとは少し違った。だが、これが神谷の答えなのだろう。
僕が何かを望むなら、神谷も何かを望むから。
「きっと誘う」
いくつもの感情を保留して、僕はそう告げる。
神谷のことを理解するために、時間を重ねようとするために。
僕は頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます